JA3IG 葭谷 祐冶氏
No.4 葭谷さんハム活動(1)
[開局]
昭和29年(1954年)6月、自作機による局を開局する。当時の無線局落成検査については、この連載のほかのハムのところで触れたように大変な仕事であった。葭谷さんも「電監から係官が2、3人で来られ昼飯を挟んで検査が続いたことをおぼえている」という。初交信は国内では「JA3BXの村井さんだったと思う」と、ややあやふやであるが海外は6月13日にパナマのHP3FLと、7MHz、A3で初めての交信をした。
2度目に入学し直した大学には「アマチュア無線クラブ」はなかった。4年生の寺田幸一(JA2UC)さんとラジオクラブを作る話しがまとまり、クラブ局の免許を取りコールサインをもらったが、寺田さんは「私は4年生であり卒業してしまう。君はまだ1年生であり長い間動ける」といわれ、会長にさせられる。
昭和30年代の思い出は何度も自作機に取り組んだりしたことであるが、始まり出したSSB(シングル・サイド・バンド)の送受信機はいろいろな方法で取り組んだが「やはり難しくて断念し、結局メーカー品を購入した」という。アンテナもより効率の良いものを求めてチャレンジした、という。
[アワード]
葭谷さんは相変わらず、学業を放り出してアマチュア無線に没頭する。国内よりも海外との交信に熱中した。別にアワードを意識した運用ではなかった。しかし、いつのまにかQSLカードがたまったため、「DXCC」や「WAZ」の申請をしたという感じだったらしい。「DXCC」は昭和46年(1971年)12月、「WAZ」は昭和49年(1974年)3月だった。
「DXCC」は米国のARRLが制定した「DXセンチュリークラブ」のことで、指定された世界のエンティティ(国や領域)100以上と交信すると、会員になれる。葭谷さんはこのメンバーとなった時点で200エンティティ以上を達成していた。現在は「調べていないが300エンティティは超えていると思う」という。
DXCCアワード
WAZアワード
[世界1万局読売アワード]
国内のアワードでは「世界1万局読売アワード」がある。読売新聞社の主宰であり、複雑な条件が設定されている。まず、DXCCの200エンティティを達成し、ITU(国際電気通信連合)の定めた70ゾーンのほか、7大陸との交信で10000局との交信を達成していることが必要であり、相当ハードルは高かった。
葭谷さんが、このアワードを知ったのが昭和53年(1978年)の始めであった。条件を読んでみると「これまでのカードでかなり条件を満たしているように思い、調べて見た。その結果、条件内に入るカードの枚数は約9000枚であり、DXCCの200エンティティはクリアしているが、他の条件に合致する約1000局が足りなさそうだった」ことを知った。
それまで集めたカードのチェックは大変な作業だった。ITU70ゾーンのエリアがはっきりしないためである。それでも、条件を満たしているカードを2500局単位にまとめて、送り出した。苦労したのは当時のソ連領のツンドラ地帯のゾーン割だった。「どうしようもなくなりソ連領事館に行き地図を貸してもらいたい」と依頼した。
当時のソ連は情報管理が厳しく、地図などを気軽に貸すような状況でなく「頼みは断られてしまった」という。海上ゾーンはもっと苦労した。その領域を船が通っても、ハムが乗船しており、しかも電波を出していなければならない、という偶然性が必要だったからである。結局約1年かかってアワードをもらうことになったが、承認番号は5号。西日本地区では初受賞だった。
世界読売1万局アワード
[モービルにも熱中]
アワードの話しを書くために、やや急ぎすぎた。再び、昭和30年代半ばまで遡る。後に一緒にJMHC活動をすることになった寺田薫(JA3AMQ)さんとは家が近くであり、寺田さんが免許を取得した昭和33年(1958年)ころから親しい関係となった。寺田さんは早くから車に無線機を積み込んだモービルハムに熱中していたが、葭谷さんはその影響を受けた。
最初は家にある固定機をその都度車に積み込んだ。無線機は7MHzから28MHzとなり、やがて50MHz、144MHz、430MHzへと進んでいった。車の普及率も少ないこのころは、飲酒運転もほとんど問題視されなかった。「寺田さんを含めて、この近くのモービルハム友達2、30人とはいつも飲みまわって遊んだ。関西のモービルハムについては、平行して進んでいる連載している「VUの開拓からモービルへ」をお読みいただきたい。
[万博でのボランティア]
昭和45年(1970年)大阪で万国博が開かれた年である。当時のJARL関西支部(支部長=辻村民之・JA3AVさん)は、サンフランシスコ市館のありがたい申し出を受けて記念局JA3XPOを開局した。開局までの想像を絶するJARL会員の努力と、その成果については「関西のハム達。島さんとその歴史」に詳しく書かれている。
葭谷さん、アマチュア無線を使用したボランティア(?)に熱中した。万博には多くの国がそれぞれの国のパビリオンを出展したが、故国を離れて長期間パビリオン勤務の若い女性のなかにはホームシックにかかる人が少なくなかった。当時は、日本から海外への電話料金が高く、家族との連絡をしばしば行うわけにいかなかった。
彼女達の多くは万博会場周辺のアパートに住んでいたが、葭谷さんはチリのパビリオン勤務の女性から電話を受け、自宅の無線機に接続、チリのハムと無線交信し、先方は家族宅に電話接続、毎晩のように会話の手助けをした。海外ではすでに無線機と電話回線を接続する「フォーンパッチ」が許可されていたが日本では許されていない時代であった。
葭谷さん「万一、電波監理局に捕まった場合には、国際親善を助けて何が悪いのか、と喧嘩するつもりだった」という。幸い、この電波法違反はどういうわけか、とがめられることなく万博は終了した。記念局が世界のハムに喜ばれた一方で、違法ではあるが海外からやってきた若い女性に喜ばれる活動もあったのである。