JA3IG 葭谷 祐冶氏
No.5 葭谷さんハム活動(2)
[DXペディション]
「いつも呼んでいる立場である。呼ばれてみたい」と、葭谷さんは海外に出かけてDXペディションに熱中し始める。平成になってからであり、葭谷さんにとっては「50代の内に挑戦したかったことの一つだった」という。それからはのめり込んだ。これまで出かけた回数はは約30回。10年間強の間に30回であり「月に2回出かけたこともあった」という。
葭谷さんが、これほどまでにDXペディションに熱中したのは「皆さんにサービスしたかったため」という。出かけたのはほとんどがハムがいない島や、めったにペディションで出かけていない島。なかには無人島もある。このため、葭谷さんが電波を出すと、世界中からのコールとなる。吉谷さんは「優先して日本からのコールに答えるようにした」という。
葭谷さんは珍しいQSLカードだけはカードブックに整理している
[最初のペディション]
葭谷さんが最初に行ったのはフィジーだった。不動産仲間からフィジーに土地を買わないか、という話しが舞いこむ。当時はわが国はバブルの経済末期であり、国内の土地価格の異常な上昇が心配されだしていた時期であったが、海外の不動産売買も活発だった。現地では不動産業者が待っていて案内してくれるということになり、現地を見ることになった。葭谷さんは「出かけると返事をしたあと、DXペディションの絶好の機会」と気付く。
すぐに葭谷さんは東京のフィジー大使館に「貴国にアマチュア無線機を持ち込み、海外と交信することができますか」と問い合わせた。返事は「クーデターがあったばかりなので無理」というものだった。そこで、葭谷さんはフィジー本国に直接申請することにし、申請書を送ってもらい、必要項目を記入して送り返した。
ところが、出発が迫ってきても許可が下りない。葭谷さんは現地に向けてFAXを送る。「これから貴国に向けて出発する。着いたら許可を欲しい」と。フィジーに到着して日本の電波監理局に相当する役所に電話すると、局免許をあげるという。「重い機械を持ってきたが良かった」と喜んだものの次ぎは入国の際の通関でもめた。
「通信機に税金を払え」という。葭谷さんは「これは持ちこみ品でなく、持って帰るものであり関税はおかしい」と抗議するが聞き入れない。「それではこの機械はここで販売してもいいんだな」と捨てせりふをいったものの、税金は徴収された。その足ですぐに免許をもらいに行った。コールサインは3D2JA。JAは日本のライセンス局を意味する。約3000局と交信したが、もう一つの目的である土地は買わなかった。「その後、フィジーの土地が売れている、という話は聞かず、買わずに良かった」と葭谷さんは振り返る。
[ミッドウェイ島]
ミッドウェイ島。太洋戦争初戦で日本海軍はハワイを奇襲し、華々しい戦果をあげ、勢いに乗ってミッドウェイの米軍基地を殲滅しようと、航空母艦を揃えて出撃したが、作戦の暗号が洩れていたり、索敵がまずかったこともあり、壊滅的な打撃を受ける。太平洋戦争の帰趨はこのミッドウェイの敗北で決まったといわれている。
そのミッドウェイ島は、日本からハワイへと向ってほぼ4分の3程度行ったあたりの北緯28度付近。すこし、ミッドウェイ島について説明すると、発見したのはハワイの船で1859年。江戸末期の安政6年である。1903年(明治36年)に、米国のルーズベルト大統領が米国海軍の基地とし使用して以来、1979年(昭和57年)まで基地が置かれていた。
その後、米国内務省魚類野生生物局の管理となり、実質的に監理を任されたのが米国のミッドウェイフェニックス社であった。同島はアホウドリの営巣地として知られており、自然保護のための監理は厳しかった。それでも、フェニックス社はツアーを組み、一定の人数に制限した観光ツァーの受け入れを続けていた。
ミッドウェイでの葭谷さん
[戦後の日本人上陸第1号]
そのツアー募集を葭谷さんが知ったのは米国でであった。平成8年、葭谷さんは米国人と結婚するお嬢さんの結婚式のため米国にいた。結婚式の当日、ふと、全国紙である「USAトゥディ」を見ていると「30名限定でミッドウェイ島ツアー」の広告がある。葭谷さんは「結婚式どころではなくなってしまった。日本人でも良いのか。どのようにして申し込んだらいいのか」さまざまな思いが頭を駆け巡った。
結婚式どころではなくなった葭谷さんは早速、ホテルのFAXから旅行会社に参加を申し入れる。送り返されてきた申込書には「「身長や目の色などを記入する欄があり、びっくりしてしまった」という。「結婚式どころではなくなった」という葭谷さんの言葉が気になったが、式にはきちんと参列したという。
葭谷さんは一度日本に戻り、無線機の準備をしハワイに渡る。ミッドウェイ島行きの飛行機は小さな飛行機であり、着陸するとオフィサーが「あなたは日本人の第1号です」と歓迎してくれたらしい。その後、何人かの日本人がツァーで行ったが、2002年(平成14年)にフェニックス社は同島の管理から手を引き、現在は空港施設、宿泊施設、食事の供与もできない無人島となっており、特別なグループ以外の上陸はできない状態にある。
葭谷さんの交信がハムはおろか、人の住まない無人島から聞こえ出すとJA3IGのコールサインが世界のDXerに知れ渡るようになる。そのため、海外のDXペディショングループからチームのメンバーとしてペディションに出かけようとの誘いの声が増え始める。しかし、葭谷さんのペディションは基本的には単独ペディションである。