JA6AV 井波眞氏
No.7 その他のハムの方々の戦前
井波さんは、その後の堀口家がどのようになったかまで調べようとされた。戦前の住所がわかっていることから、鹿児島県のハムの方たちに依頼した結果、堀口さんの住んでいた西田町一帯は戦災で焼け、堀口家は残っていないことがわかったが、簡単な調べではご家族の消息は不明である。昭和28年に弟さんの正晴さんが想い出を書かれておられることからも、どこかに転居したことは確かであるが、その後がわからなかった。
この調査でわかったことをついでに触れておくと、堀口さんのお父さんは堀口文八さんといい、私立の鹿児島中学校の博物の教師だった。堀口さんの友人の一人に同じ鹿児島市内下荒田町に住んでおられた横山耕三(J5DF、JA1SR)さんがいる。浜松工業高等学校を卒業後、中学校の教師となり、その後、警察無線関係の仕事をされた後、通信機器メーカーに勤められ、川崎市に住んでおられたことがわかっている。井波さんはその消息を探したが残念なことに15年ほど前にサイレンとキー(死去)となったことがわかった。
アマチュア無線用語のなかにOM(オールド・マン)やOT(オールド・タイマー)という言葉がある。OMは年配の経験豊富なハムを意味し、OTはさらに年配のハムを指す言葉である。昭和57(1982)年12月15日、そのOT達が集まって「レインボークラブ」を発足させた。「戦前、ハムを通じて培われた友情をいつまでも大切にしよう」をスローガンとし、その後も折に触れて会合をもち、会報の発行を続けてきた。その「レインボークラブ」も、ついに昨年(平成12年)の11月19日に開かれた第20回総会で解散を決めた。高齢化により会員の出席が減ってしまったことも理由である。ただし、東京近傍のレインボー会員で組織されていた「レインボーDX会」は誰でも参加できる形態に改めて存続を決め、今年(平成13年)11月6日に東京新宿で開かれた。
レインボー会の機関誌「Reinbow News」は、No.20が最終回となった。
平成13年11月6日に新宿で行われた「レインボーDX会」
このクラブには九州からは6名が会員となっていたが、この原稿を書いている時期には4名の方がサイレントキー(死去)となっている。名前となくなられた時期を記しておく。吉岡司郎さん(昭和58年9月)、横山耕三さん(昭和62年2月27日)、大西丈雄さん(平成1年5月9日)、関伊吉さん(平成7年3月8日)。一方、能登原茂さん、能登原新さんのご兄弟はお元気であり、いまでも電波を出されている。クラブ会誌の最終号には会員の方からの近況便りが掲載され、茂さんは「7MHzと14MHzでの各OMとの交信を唯一の楽しみとさせていただいております」と投書。また、新さんは「毎日いくつかのスケジュールは楽しみであり、毎日の日課になっています。機能保持にと毎日必ずやっていたCWは最近怠りがちになっています」と近況を寄せている。
この号では同時に「太平洋戦争開戦時におけるアマチュア無線の状況」をアンケートで集めており、会員それぞれが簡潔にあるいは詳細に当時の状況を寄せている。この中で、茂さんは「昭和15年末に無線局廃止届を提出しており、その後当局の調査はなかったと父から聞いております。送受信機材は当時使用不能の状態に処理したままで残存しておりました」と答えている。また、新さんは「昭和8年から海軍で働いていましたが、実験局の開戦時の処理は聞きませんでした。機材は就職後廃止しました」と報告している。
以上、堀口さんの活動を軸にして九州のアマチュア無線の戦前の歴史を眺めてきたが、昭和10年半ばの頃の九州のハムの活動は堀口さんに刺激を受けた面もあったのかどうか、全国でも活発な方だった。