JA6AV 井波眞氏
No.16 国際的な活躍
沖縄では昭和30年(1955年)に電波法が制定された。日本本土の電波法を参考として作られたものの、当時、沖縄を支配していたアメリカ民政府は「民政長官の許可がなければ電波の使用はできない」との通達を出す。琉球大学の学生であった仲地昌京(KR8AY、JR6AY)さんは「琉球アマチュア無線研究会」を結成、お互いに小遣いを出し合って民政府担当者と会食をしたり、米人ハムであるKR6のグループに免許促進の依頼をするなど涙ぐましい努力をする。JARLも本土の関係方面に陳情するなどできる限りの支援を続けた。九州では浦上さんも奔走した。
昭和33年3月、民政府と琉球政府関係者協議会でアマチュア無線の免許方針が決まり、35年5月に電波法の一部改正、6月に施行となり、ようやく沖縄にも陽射しが射し始める。「琉球アマチュア無線研究会」は「沖縄アマチュア無線研究会」に改称され、70名が参加して行なわれた結成式では平安名常功さんが会長に選出された。
第1回の試験は10月に行なわれ、翌36年4月に無線局免許の申請が工務交通局に受理された。5月には平安常睦(KR8AA)さん、石橋勇(KR8AB)さん、山里平一郎(KR8AC)さんらに沖縄で初の予備免許が与えられ、本免許が6月に石橋勇(KR8AB、JR6AB)さんに与えられた。沖縄は昭和47年に本土復帰を果たし、コールサインがKR8からJR6に変更される。
石橋さんの初期のQSLカード JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より
そして、この年の8月に会員61名のJARL沖縄県支部が発足し、初代支部長に又吉信篤(JR6AO)さんが選ばれた。JARLは53年に沖縄に沖縄連絡事務所(所長=眞喜屋松榮さん)を開設。井波さんが九州地方本部長の時である。結局「原さん達と一緒に沖縄には10数回行きましたね」と井波さんは振り返る。
昭和45年、井波さんの勤務先である九州朝日放送は、新放送設備への切り替えが一段落したのにともない、将来の放送業界がどうあるべきかを調査するため、社長は欧米の放送業界を40日に渡って視察した。この時、同行したのが井波さんだつた。欧米各国では現地のハムが放送局との面会予約や送迎に動いてくれた。社長は遠く離れたハム達の結びつきに感激するとともに、その後は「私のアマチュア無線活動を暖かい目で見ていただけるようになりました」という。この海外でのハムとの出会いは井波さんをさらに“国際人”にし、その後のJARLでの活躍につながっていくる。
10年後の昭和55年(1980年)、JARL副会長となった井波さんの語学力と折衝能力が生かされるようになる。56年、JARL訪中団(団長=原会長)の一員として中国を訪問。この時は、北京の中国無線電運動学校を訪ね、また、安黴省ではわが国のフォックス・ハンティングに似た「ARDF(無線電測向競賽)」を見学。中国ではアマチュア無線の免許が与えられていないため、受信だけのこの競技が盛んになっていた。井波さんは「中国では無線がスポーツの一つに位置付けられていたが、この競技を見て納得した」という。
翌57年、今度は団長として訪中し、少林寺でARDFに参加するとともに、中国無線電運動学校ではBY1PK局を外国人としては初めて運用している。14MHzのCW(電信)で、日本にいる原会長など64局と交信した。「ARDFでは方向探知、ランニングとオリエンテーリングを一緒にした競技であり、参加はしたもののまったく手に負えなかった」と井波さんはいう。58年にも団長として中国を訪ねるが、度重なる訪中は中国のアマチュア無線開放の支援であった。この年は上海を訪問しBY4AAの開局式に臨むのも目的であった。
同じ年の9月19日には東京で「世界アマチュア無線国際会議」が開催された。第1日目の午前中に開会式が行なわれ、午後に全体会議が始まったが、議長にARRL(アメリカアマチュア無線連盟)のクラーク会長が選ばれ、井波さんは副議長として議長を補佐する大役を担った。会議は3日目に「東京宣言」を採択して終了したが、アマチユア無線が戦後に再開されて約30年、ハムの数でも、また、質(技術力)においても世界のトップクラスとなった日本の力を認めてもらえた会議となった。ちなみに、会議は郵政省とJARLの共催であり、参加国は18カ国、参加者200名に及んだ。
沖縄で1961年に予備免許を与えられた高良剋夫(KR8AG)さんの免許証