井波さんにとって、親しかった野瀬さんの死はつらいできごとであった。1971年に「ティーチャー・オブ・ザ・イヤー」に選ばれるほどの物理の優秀な教授であった野瀬さんは、同時にハムとしても83年に「ザ・デイトン・ハムべンション・アマチュア・オブ・ザ・イヤー」に指名されてもいる。野瀬さんの死去後、ARRLのクラーク(W4KFC)元会長と並ぶ「コンテストの大家」として評価するハムは多い。

野瀬さんのお父さんは福岡の出身であったこともあり、井波さんは何度かお会いし親しく交流したが、偶然のことから井波さんの奥さんである和子さんも、野瀬さんの家族を知ることになる。和子さんは九州朝日放送でアナウンサーを務めていた。ある時、野瀬さんのお父さんに「ハワイ料理」についてインタビューしたことがある。「立派なお父さんでした」と和子さんはその当時を思い出している。

今、井波さんは九州大学の客員教授であるテレンス・G・ラングドン(7J6ABN)さんと奥さんのマァデー(7J6AAB)さんを支援、ご夫妻の自宅に2局の設備を設けることに協力している。そのラングドン夫妻は来日の折ごとにコンテストに参加するなど活動的である。

井波さん宅の八木アンテナ

ついでに、九州のYL(女性ハム)第1号について触れておきたい。昭和30年(1955年)にJA6KHとなった筑後市の平木量子さんである。平木さんは昭和8年生まれ、福山禎三(JA6CP)さん、福山博之(JA6CX)さん兄弟に感化されて、ハムとなった。その後、量子さんは安東二郎(JA6GH)さんと結婚され、現在は安東姓である。一方、「女性にもアマチュア無線資格を」と浦上さんは、東京で開かれた「ハム女子大」にならい、九州でも昭和34年(1959年)に熊本市の九品寺にあった君が淵電波専門学校(平成12年に崇城大学に校名変更)を会場に開催した。受講者は30名強、6カ月の講習の後に15名が受験し、9名が合格した。残念なことに開講は1回だけであった。

井波さんは今、約50年に及ぶアマチュア無線生活を振り返って「思い通りのことをやってきた。家族には迷惑をかけたが私自身は満足している。職場も放送通信であり関連があったことから、アマチュア無線をやっていることに理解してもらえた」また、「世界に友人がいることはありがたい」という。

そして「想い出のできごと」として3つのことを上げてくれた。1953年の「九州大水害での非常通信に戦後初めて参加できたこと」、55年に「マニラのジョージ・フランシスコ・DU1GFに会えたこと」そして66年に「南極の昭和基地8J1RL、深川、佐藤越冬隊員の“南極の声”を録音したこと」である。南極の声を録音したテープは日本に居るそれぞれの留守家族に届けられた。さらに、留守家族の中には、井波さんが南極と交信する場所で「バックノイズ」として声を届けた人もあった。

今回の連載では、アマチュア無線の発展に活躍された、たくさんの方々についても触れる余裕がなかった。実は井波さんもそれを非常に気にかけているが、限りある連載ではやむを得なかった。連載を終えるに当たって、井波さんは「多くのアマチュア無線家のご協力によりまとめることができました。ご援助に心からお礼申しあげます」とコメントしてくれた。

「電波を利用するには、常に何らかの形で社会に還元すべきだと考えています」と井波さんは強調する。「想い出」の3つはいずれも人道的な面や、他人が欲していることを満たすために電波が使われた例である。これからのアマチュア無線がどうなるのか、どうあらねばならないのか。井波さんは次のように指摘している。

--これからは、短波帯のさらなる利用技術が課題であり、アマチュア無線のデジタル化のために英知を集めることだと思います。それには、若い世代の方々にアマチュア無線の醍醐味を知っていただき、大いに活用してもらうことが大事。若い方々にはアマチュア無線のソフトウェアを指導していただきたい。アマチュア無線はハードからソフトの時代を迎えております。パソコンなしでは太刀打ちできません。一人の努力も大切ですが、クラブで協力し合うのが大事です。クラブの育成、相互扶助を要望します。--

今年(2002年)2月10日、福岡県の瀬高町で「西日本ハムフェア」が開かれた。原昌三・JARL会長、井上徳造・アイコム社長も出席、予想を上回る約1000名が来場するなど大盛況であった。井波さんは以前から、JARLの活動について「私が口を挟んではいけない。若い人達にやってもらう」と、支援するにとどめている。このため、ハムフェアの前日の前夜祭でも、フェアの当日でも、JARLの活動メンバーを叱咤激励していた。その姿から、この世界が好きで好きでたまらないという思いがにじみでていた。