JA6BX 江崎 昌男氏
No.6 江崎さんのハムライフ(2)
[就職]
江崎さんはどうやら、大学時代にはアマチュア無線を楽しみながらも、のめり込んでしまうことはなかった節がある。アワードにしてもWAJAのほかに、国内100市との交信であるJCC以外は取ることもなかった。昭和31(1956年)卒業の年が迫っていた。卒業論文として、仲間と2人で日本でも生産が始まったばかりのトランジスターによるデジタル回路の実験を計画した。
その一方では、ラジオ受信機や無線技術を生かしたアルバイトとして、漁業無線の修理を引き受けたりした。北九州門司区にある海上保安局の通信室でプロ通信士が、複数の船舶を相手に電信で交信しながら他の通信士と雑談(?)したり、その合間にお茶を飲んだりしているのを見た江崎さんは「プロとアマチュアの差を見せつけられた思いがした」と、その当時を振り返っている。
卒業を控えて、江崎さんはIBMへの入社を決める。周囲の友達は驚いた。当然、放送局か無線機メーカーに就職するものとばかり思っていたからであろう。江崎さんは就職に当たって考えた。「道楽と仕事は分けた方が良い。もし無線を仕事にしたら道楽ではすまされない」と。
[パンチカードシステムのIBM]
就職を決めたIBMは、そのころはパンチカードシステムが中心事業で、真空管を使った計算機からトランジスターへの移行のための研究・開発が行われていたころであった。「まだ、コンピューターという言葉も一般にはなかった時代でした」と、江崎さんはいう。当時、大学の近くにあった八幡製鉄(現日本製鉄)がIBMの製品を導入して、給与計算などの事務効率を驚くほど向上させたというニュースがあった。
江崎さんはIBMについての知識は全くなかった。「八幡製鉄が米国から輸入の機械を入れたところ、これまで1カ月以上かかっていた給与計算が2週間で出来た、という記事を読んでIBMを知った」という。また、3年生の時に企業工場見学で富士通のリレー式計算機を見たこともIBMへの就職決断の理由になった。
「計算式と数値が決まった時に答えも決まってしまう。何10桁の計算を2、3秒で処理してしまうそのスピードに驚いた。人間が時間をかけてやるのは無駄なことだ。これから機械に計算させる時代だ」と思った。IBMから大学には数名のエンジニアの募集がきており江崎さんは応募した。この当時は日本IBMの社員数は数百人程度。「合格通知は手書きだった」ことを江崎さんは覚えている。
IBMの採用通知は手書きだった
[米軍基地勤務]
IBM入社とともに東京に移る。最初の2年間はパンチカード式会計計算機システムの顧客への据え付け、保守が主な仕事だった。入社後の研修・訓練が終わるころ上司から希望配属先を尋ねられたが、新米社員には特別な希望など聞かれても、何を根拠に答えるかがわからない。「どこでも結構ですと答えたら即座にキャンプ座間を始めとする米軍基地への配属が決まった」という。
しばらくして、他の誰もが希望しない配属先であることを知った。それからは、立川、所沢、横田基地などで稼動中のIBM機器の保守点検の仕事が始まった。保守の仕事を始めてみると、パンチカードを照合する機械の故障が目立って多いことに気がつく。「1台に数100個使われているリレーの劣化が原因である」ことを江崎さんは知る。
高速動作が要求されるリレーでは100分の1秒程度の遅れが問題になる。しかも、1秒間に5~10回の動作があるため磨耗や劣化が激しい。劣化したリレーを交換するが、個数が多いため数日後には別のリレーが駄目になり、機械を使う基地のオペレーターである兵隊から毎回怒鳴られる。
IBMで機械のメンテを行う江崎氏
[日本初の提案採用]
江崎さんは「なんとか不良リレーを早めに見つけて予防交換できないか」と考える。そしてあることに気付く。「ボケた真空管はヒーター電圧を上げて使えば一時的にでもよみがえる。その逆をリレーに応用してみたらどうか」と。さっそく電源トランスのタップを替えてリレーへの供給電圧を10%ほど下げて試したところ、悪くなりかけたリレーがたくさん見つかった。
それをすべて交換した後、電圧を元に戻して様子をみると、それまで毎週のように故障していた機械が2カ月以上も安定して働くようになった。江崎さんは「良いアイディアと思い、提案制度を利用して"リレーの劣化早期発見法"として提案した」という。数週間後に本社のあるニューヨークから提案採用通知と、賞金90ドルが送られてきた。当時は1ドルが360円であり「1カ月の給料に近かった」ことを江崎さんは覚えている。
さらに、驚くべきことがあった。アフリカに出張中のA.K.ワトソン社長が提案採用を祝した手紙を現地から送ってくれたことである。ベルギー領コンゴの消印の手紙には「この地であなたの提案が採用になったことを知ってとてもうれしい。これからも優れた提案を出すよう頑張ってください」と書かれていた。江崎さんは「入社2年目の駆け出しの私にとって生涯忘れることのない励みとなるとともに、米国企業におけるマネージメントの勉強になった」という。
やがて、世界の巨大企業に育っていくIBMであるが、そのころから日本企業と違い合理的な経営が行われていた。給料が本給のみであり、残業手当以外は一切なかった。大学の同期生が就職した日本の会社では、5種類も6種類も手当があり、合計する江崎さんとほぼ同じ額になるものの、わかりにくい体系だった。
一方、IBMでは社員が会社で仕事に専念し「優れた業績を出せるのは家族の理解と協力があってのこと」という理由で家族同伴のパーティーが良く行われた。「年功という考えはなく、上司と話し合いで決める成果目標の達成度合いで評価されるので、努力とその成果が報われる仕組みだった」と江崎さんはいう。