隈本さん、森さんのEME交信の話しを続ける。昭和50年(1975年)2月22日、米国のスタンフォード研究所が月に向けて電波を発射すると発表、日本では各地でその受信に挑戦し、受信に成功したグループや個人がいくつかあった。隈本さんが中心となり、森さんも加わった久留米のグループもこの時初めて受信に成功している。このころ、日本では宇宙通信は許可されていなかったこともあり、スタンフォード研究所が後に発表したデータでは日本からの電波受信の記録はない。
[隈本、森受信に成功] 

昭和51年(1976年)1月わが国もアマチュア無線に宇宙業務が認められ、隈本さんは8月30日に米国のボブ・サウザーランド(W6PO)と144MHzで交信に成功。わが国初の144MHzでのEME交信となった。一方、森さんは役員をしている森鉄工所の業務に追われていたが、隈本さんの快挙に刺激を受け本格的にEME交信に取り組み出した。

「144MHzのアンテナの大きさに恐れをなし、430MHzで挑戦した」という森さんは、昭和51年(1976年)5月、7月に海外2人の電波をそれぞれ受信、そして翌年3月6日に米国のアレン・カレッツ(K2UYH)さんとの交信に成功。430MHzでの初のEME交信を達成した。前川さんはともに日本初の記録をもつこの2人と会った後に、福岡市を訪ねた。以上のことは別の連載「EMEでの活躍と森ローテーターの開発」に詳しく書かれている。

宇宙通信を手掛けているハムの間では、月に中継器を設置して交信できるようにしたらどうかとのアイディアがある。現在何も決まっていないが、江崎さんは「アマチュア衛星仲間では月をオスカー0(ゼロ)と呼び実現を論じている」と言い「実現するとEMEと比べてパワーもアンテナも小規模な設備で交信でき、そう遠くない将来の夢として期待したい」との願いをもっている。

[スプートニク40/41周年衛星] 

平成9年(1997年)は、旧ソ連がスプートニクを打ち上げてから40年目の年であった。それを記念してロシアとフランスの高校生ハムたちが共同で初代のスプートニクを再現して制作、MIRの飛行士が船外活動のついでに軌道に放出した。このRS-17衛星からの信号は「40年前のスプートニクと同じ懐かしいピーッ、ピーッという断続音であった」と言う。

江崎さんはさらに翌年にもロシアとフランスのハムが協力して打ち上げた41周年記念衛星RS-18も同様に受信した。この時は「可愛い少女の声で記念メッセージが送られてきた」と言い、それぞれカードを受け取っている。

スプートニク打ち上げ40周年記念の衛星RS-17の信号受信カード

[パラオでのペディション] 

IBM勤務時代、業務で海外に出かけることの多かった江崎さんであるが、アマチュア無線での海外ペディションに出かけたのは2回だけである。最初は平成3年(1991年)8月にユニセフ・ハムクラブのメンバーとタイのバンコクでHFを運用した。次いで平成12年(2000年)夏、パラオに江崎さん、明善高校の山下先生それぞれの家族で観光も兼ねて出かけた。宿泊したパラオパシフィックリゾートホテルの一室にはシャックがあったがHF用の設備のみ。

「私たち2人がペディションに行き、衛星通信を全くやらなかったら日本の衛星仲間からひんしゅくを買う」と2人はV、U帯の無線機とアンテナを持参したが、アンテナタワーは100mも離れた場所にあり、衛星の追尾は不可能。シャックの近くに建てようとしたが、ホテルからは「美観上からも他のお客さんに見える場所に設置しないでほしい」と釘を刺される。

ホテルは海水浴ビーチとつながっており、夜にビーチのはずれに設置するならば良いとのことであったが、問題は電源であった。見回しているとホテルの庭のはずれに夜間照明用と思われるコンセントがあるのに気付いた。衛星通信は1日2回、当時もっとも利用されていた南アフリカの大学が打ち上げたSO-35を使って数分間行い、日本の12局と交信ができた。HFでは「一人1000局」を目標にしていたが、終わってみると山下さんが1400局、江崎さんが1100局の成果だった。

パラオの海岸での衛星交信に使用したリグ

パラオ大統領公邸での2家族。右から江崎夫人、江崎、山下夫人、山下、子供は山下子息(敬略)

[なつかしの大連] 

ペディションとは関係ないことであるが、平成10年(1998年)夏、江崎さん夫妻は中国の大連・旅順の観光ツアーに加わった。大連で泊ったホテルは大連駅の近くにあり、江崎さんが小学校2年生のころ住んだ家に近い所らしく、歩いて行ける場所であると判断し、翌朝2人で向かった。旧制ロシア時代に建てられたと思われるレンガ造りの元住まいは古くなっていた。

が、江崎さんは「一目見てそれと分かった。55年ぶりの対面であった。中に入って見たい気持ちを抑えながらタイムスリップの感に浸ったひと時だった」と言う。江崎さんの手元には日本に帰国する直前にその家の前で撮った写真が残されている。「家内はこの写真と見比べて、私が55年以上も前の場所と家を間違いなく覚えていたことをやっと信じてくれた」と言う。一方、生まれ故郷の旅順はこの時は残念なことに写真を撮ることが許されていなかった。

大連では55年ぶりに元の住まいを訪ねた

[日本IBMアマチュア無線クラブ] 

世界企業に成長したIBMの社員の中にはハムも多い。江崎さんが入社してしばらく経った昭和35年(1960年)チリで大地震が発生し、チリのIBMとIBM本社間との連絡が途絶した。これを契機に世界の主要IBM事業所に非常通信手段用としてアマチュア無線クラブ・ネットワーク作りが奨励された。日本IBMでも、昭和55年(1980年)ころから非常時の対策も兼ねて、本社、工場、主要事業所にアマチュア無線クラブが設立され始めた。

江崎さんも現役時代には本社メンバーの一人として、定期ロールコールやミーティングに参加し、時にはクラブ報に寄稿したりした。退職し九州に移った今は退会したが在職時代には「メンバーに衛星通信を勧めたりしたが、現在でもアクティブなのは金子明(JA1OGZ)さんだけ」と残念そうだ。金子さんは、まだパソコンが普及していない時代にTRAKBOXと呼ばれる衛星自動追尾装置を世界のハムと共同開発した一人でもある。