JA7AIW 山之内俊彦氏
No.4 戦前の東北のハム達(3)
鳥潟さんらは、その後現在では「電灯線搬送」と呼ばれている通信にも取り組んだり、電気暖房器、電気火鉢、電気釜なども開発したといわれている。38歳の若さで電気試験所長に就任したが、大正12年(1923年)に41歳で亡くなっている。鳥潟さんについては「関東のハム達。庄野さんとその歴史」に、また「TYK」無線電話については「北陸のハム達。円間さんとその歴史」に詳しく触れている。
「鉱石検波器」を開発した頃の鳥潟右一博士
[関西ハムの東北帝大進学]
八木さんと鳥潟さんの話しから、再び戦前のハムの人達の話題に移る。菊池喜充さんの昭和3年(1928年)の免許は大阪(J3CF)時代のものである。旧制高校時代に免許を取得した菊池さんは、東北帝大電気工学科に進学する。この時、同じように関西から同大学に進学した同級生が林龍雄(J3CH)さんだった。二人は同じ日付で免許を取った。関西から東北帝大に進学した生徒は多く、菊池さん、林さんを追いかけるようにして山口篤三郎(J3CK)さん、三木正一(J3DH)さんも仙台にやってきた。
林さんは帝大卒業後、大阪帝大の理学部に勤務し、後年は読売テレビ放送の役員になった。早くから「衛星放送」の技術知識をもち、テレビ放送としての功罪を披露していた。関係者の間では「リンタツさん」と呼ばれていたが、アマチュア無線の免許は昭和8年(1933年)10月に失効している。
一方、菊池さんはそのまま仙台に残り、東北帝大電気工学の助手となった。それにともない昭和8年の前半に仙台でJ6CRを取得したとみられる。しかし、翌9年の9月には免許を失効している。林さん、菊池さんともに免許を失効させたのは就職後であり、勤務の多忙さからキーを握るのをあきらめたといえそうだ。
三木さんの昭和5年の免許も、大阪で取得したものであり、J6CSは昭和6年(1931年)4月以降に仙台で取得したことがはっきりしている。その後、三木さんは茨城県に移り、J2OAに変わっている。山口さんは結局、東北帝大時代には免許を取らなかった。どういうわけか、この時代、関西のハムの東北帝大進学は多かった。昭和8年(1933年)まで東北帝大で教鞭をとった八木先生にあこがれた可能性もあるが、あるいは先輩に誘われたことも理由かもしれない。
[東北第1号の島貫さん]
仙台での免許第1号は、コールサインJ6CAの島貫宗助さんである。島貫さんは最初、「電話局」での免許取得であり、昭和4年(1929年)3月27日はその時の免許である。わが国でアマチュア無線が許可された時、資格は「電信局」「電信・電話局」「電話局」「受信局」の4種があったことは、他の連載でもしばしば触れてきた。「受信局」は受信するだけであるが、免許が必要であり、当然ながらコールサインはなかった。同じく「電話局」にもコールサインがなく、交信する場合はお互いを本名で呼び合った。「電話局」にもコールサインが付与されたのは、昭和9年(1934年)であるが、島貫さんはその前に「電信局」免許を取った。その時期はわからないが、神山さんの免許である昭和5年2月より前であったことはまちがいない。
局名 | 呼出符号 | 位置 | 摘要 |
笠原 功一 | J3DD | 大阪市住吉区旭町一丁目三八 | 電信/電話 |
阿久澤 四郎 | J4CC | 広島県安佐群長束村 池田寅吉方 | 電信/電話 |
安藤 潔 | J7CA | 札幌市北十條西八丁目 | 電信 |
橋本 政太郎 | J7CB | 北海道札幌群豊平町大字月寒村四四 | 電信/電話 |
辻本 信夫 | 辻本信夫 | 東京市赤坂区台町二六 | |
島貫 宗助 | 島貫宗助 | 仙台市大町五ノ二〇六 | 電話 |
島貫さんが記載されている昭和4年のハムリスト
昭和4年(1929年)、島貫さんが免許を取得する以前の東北の無線業界の姿は見えない。アンカバーで交信した記録もなければ、他の地域で正式にハムとなった方が、東北と交信したとの記録もない。ただ、東北帝大では遅くとも大正8年に短波長の研究が行われており、何らかの形で電波を出していた。事実、昭和4年に発行された無線局リストには東北帝大は「電話局」として掲載されている。
「八木・宇田アンテナ」開発のためには当然電波受信が前提であり、電波の発信は早かった模様であるが、ざっと調べた限りでは外部との交信を匂わすような資料は見つからなかった。JARLは昭和6年(1931年)4月に名古屋市の中村公園内記念会館で第1回全国大会を開催、出席した30名強のメンバーのなかに仙台から菊池喜充さん、山口篤三さんの名が見える。ともに、故郷への帰省の形での参加と推定される。また、やがて仙台に来てJ6のコールサインとなる三木さんも出席している。
[東北支部独立]
この昭和6年はJARLにとっては活発な年となった。全国大会で東海支部が独立することが決まり5月に同支部の第1回総会が開かれた。次いで、東北支部の独立が認められ8月21日に仙台精養軒で発会式、翌22日に同じく仙台の政岡家で第1回集会が開かれた。当時のJARLの組織は、関東以東が関東支部、東海以西が関西支部の2支部制であった。
その後、全国的にハムの数が増加、JARLのメンバ-が増えてきたため、2つの支部が独立することになったものである。仙台の発会式には島貫、三浦、神山、有坂、菊池、関谷、青木さんが出席、来賓として東北帝大の八木、千葉、宇田の各博士が列席。また、新メンバーとして塚田、田代、林、二瓶、松本さんらが参加した。このほか、仙台逓信局、仙台放送局の職員も駆けつけ、賑やかなものとなったらしい。
JARLの第1回全国大会。八木博士のほか、山口、林、三木、菊池喜充さんらも出席した