中国大陸では昭和6年(1931年)9月に満州事変が勃発、翌7年3月に「満州国」建国が宣言され、国内では5月に5.15事件が発生、8年には先に触れたように日本は国際連盟を脱退する。東北のハム達もこのような激変する歴史の進行に生活もあわただしくなったのか、ログ(通信日誌抄録)の提出が滞りがちになる。

昭和10年(1935年)初めには、仙台逓信局からお叱りを受ける。「毎月その提出を怠り、甚だしきは2、3カ月分とりまとめて提出するものあり。当局の処理上甚だ支障あり。実験の有無にかかわらず必ず提出するようJARL NEWSまたは適当な方法により周知するよう願う」という伝達である。

ハムも演習に参加するようになった。野外演習での無線機の運用

[8年戦争の勃発] 

昭和11年(1926年)9月、北海道で「陸軍特別大演習」が実施された。東北支部管内では初の演習であり、また、国内最後の特別演習であった。そして、昭和12年(1937年)7月7日、北京郊外の蘆溝橋での日中両軍が衝突、その後8年間に及ぶ日中戦争が始まる。この日中戦争をきっかけにハムが実際に戦場に出掛けることになる。

個々に召集を受けたハムもあったが、軍が組織的にアマチュア無線局を活用したのが陸軍航空本部の「無線通信技術員」であり、「北支航空部隊通信要員」である。この両組織については、同時に掲載されている連載の「北陸のハム達。円間さんとその歴史」に詳しく触れている。東北支部からは宮城県でラジオ商であった青木さんが「無線通信技術員」に応募した。

このグループは国内で短期の教育を受けた後、中国に渡り「第15航空情報隊」と「第15航空通信隊」とに分かれることになった。ところが、情報隊の編成は兵器兵員の不足から、とりあえず通信隊に配属され、約1年後の昭和13年(1938年)12月になって、転進先の漢口でようやく編成が完了した。といっても、要員は青木さんと長野県の堀口安(J2HC)東京の石山舎人(J2MV)の3人であった。

[第15航空情報隊] 

この頃の現地の様子は「Rainbow News」のNo20に、青木さん自身や堀内さん、石山さんが簡単に書いている。堀内さんによると、青木さんと石山さんは情報隊が編成されるまで、機材整備、秘密通信の研究を手がけていた。「当時の通信機材は“軍事機密”にしないと恥ずかしいくらい低い性能のものであった。ハム技師が果たした立派な機材整備があってこそ何とか通信の維持ができた」と自己評価している。

さらに、堀内さんは「上海で購入した部品で簡易高性能の送信機を製作し、また、RCAの交流式16球受信機を改造して、前線で使用できる直流式に改造させるなど、その功績は大変なもので、第15航空情報隊が4個の金鵄勲章に輝いたのも両氏の支えがあればこそ」と褒めたたえている。

軍用無線機。写真は1式空3号隊内無線機

[文字伝送機の開発] 

石山さんは「一番思い出に残るのは地図伝送の研究を命ぜられたこと」として、その顛末を書いている。南京滞在中のことであるが「部隊が移動中、無線で命令は出せても詳細な位置を正しく知らせることができない。地図が電送できればこのような不便は一挙に解決できる。これが研究命令の動機であった」という。

そこで「青木さんと相談しやってみようということになり、まず参考文献集めから始めた」この当時、文字伝送は早稲田大学の円板式と浜松高工の電気式とが知られていたが、文献の入手ができないため、2人は苦労する。「上海に洋書の海賊版があると聞けば飛んで行き、南京の街中もさがし歩いた」と書いている。そのうちに、月刊ラジオニュースにテレビジョンの基本回路が掲載されているのが見つかり「トランス類を自作すれば、真空管その他の部品の入手は見当がついた」と、開発に取りかかった。

2人は早速「図面通りに作り上げれば1枚の画像は垂直1走査で瞬時に伝送でき、秘密保持にも役立つことがわかった」と期待する。しかし、実験してみると、1文字3cm程度の文字は送受信可能だったが、地図を伝送するまでにいかなかった。「今考えれば馬鹿みたいなことであるが、部品の入手極めて困難な戦地での実験、研究だったので非常に苦労したものである」と、振り返っている。

青木さん自身の回想は戦時色を感じさせないものである。昭和14年2月頃、内蒙古・包頭に前進した部隊との連絡が取れなくなったため、青木さんは現地に出かけた。現地の送信所には対空2号無線機が設置されていたが、発電機が発電しないのが原因であることがわかった。調べてみると「手入れも良く、回転数も正規の2700回転で回っており、異常がない。良く見ると、きれいに磨かれた発電機の表面には氷の花が咲いたように白く霜が付いているのである」と記している。