平成12年(2000年)11月、原さんが恐れていた時がやってきた。昭和47年(1972年)から3年間、政府派遣教員としてバンコク日本人小学校に勤務時代、原さんはB型肝炎に感染、帰国後しばらくしてその事実がわかった。現地で予防注射を受けた折り「とり替えることなく使用された注射針からの感染だったと思う」という。

医師からは「20年、30年後には発症しますよ」といわれ、用心してはいたがついに肝不全、次いで腎不全を起こし脳の機能も衰え、時々意識を失う状態であった。当時、渡島支庁の八雲養護学校長だった。地元の病院では「もう打つ手はありません」といわれ、約200Km離れた札幌の病院にヘリコプターで緊急輸送され、肝臓移植の手術を受ける。

意識が回復したのは2週間後。この間、薄れ行く意識の中で原さんは、東京のジャンク街秋葉原の雑踏の中を歩き回ったことを思い出していた。また、医師がインド人であったり、すでに他界している母親が看病してくれたりした。それも幻覚であった。4カ月後、原さんは幻覚の中であこがれた秋葉原に出かけるまでに回復し、今年(2002年)4月には札幌盲学校校長に就任、さらに10月6日に砂川市で開かれた「2002全日本ARDF競技大会」の陣頭指揮をとった。

今年10月に砂川市で行われた「2002全日本ARDF競技大会」のカード。

[恵まれた少年時代 ラジオ少年]

昭和19年9月21日、原さんは樺太に生まれたが、戦後北海道に引き上げる。幌加内町立新富小学校時代、工作や理科の実験に興味をもった少年であった。父親は理科の教員であり、家にはいろいろな化学材料があった。それを使い学生服のボタンにニッケルめっきをしたり、電池式ラジオをさわって壊したりした。いたずらする材料には事欠かなかった。当時、ラジオマニアには引張りだこであった杉本哲さんの書いたラジオ関係の本もたくさんあり、読みふけった。「小学校3年の頃だった」と思い出している。

原さんの小学校3年当時。

読めない漢字は母親に聞いたが、配線図はすぐに覚えた」という。その姿を見ていた父親は3球ラジオのキットを買ってくれた。組み立てると、東京の放送局も聞けた。次いで、鉱石ラジオのキットを与えてくれた。作ったものの放送は聞こえなかった。旭川までもっていくと5m程度のアンテナで聞けるが幌加内町では、どんな大きなコイルを使っても高いアンテナを建てても、どうしても聞くことができなかった。

小学校6年、5球スーパーラジオで短波放送を聞くことのできる付加装置を父親が買ってきた。イタリアのラジオローマ、VOA(ボイス・オブ・アメリカ)などを聞いて感激していたが、周波数を変えると楽しそうに話しをしている電波がある。アマチュア無線との出会いであった。

小学校6年。後方中央。前列中央が校長であった父親の健児さん。

昭和32年4月、幌加内町の政和中学に入学。しかし、豪雪地帯のため通学の汽車が運休となることもあり、3学期からは室蘭の祖母の家から通える室蘭市の成徳中学へ転校した。そこで、原少年は人生を大きく変える2人の教師にめぐり合う。中3担任の横山功先生と、放送部顧問の佐藤浩一先生である。後年、原さんは教師の道に進んだ時「学級経営は横山先生の経営を真似させてもらった」と語っている。

一方の佐藤先生は音楽が専門であったが、電子機器を何でも作ってしまう先生であった。ポータブル電蓄、ワイヤレスマイクなどを中古品を集めてきれいに作り上げる。電蓄には出力真空管807を使用した大出力アンプが内蔵されていた。また、ワイヤレスマイクは出力管3S4がC級で動作するよう固定バイアス電源をとり入れていた。原少年は放課後になると放送室に入り浸っていた。ただ、佐藤先生は、人使いは荒かったらしい。原少年が卒業の年、卒業式が終了すると卒業生の原少年に向って「マイクとスタンド、外に出してあるトランペットスピーカーをはずし、それから・・・・」と次々と用事を頼んだという。

この頃の思い出を原さんはご自分のホームページに記している。次ぎのような内容である。「父は教員であり、普通のサラリーマンであり、家計は決して豊かではなかった。しかし、よくラジオの部品を買ってくれました。中学1年の時、ソニーがトランジスターラジオを発売し、その後“初歩のラジオ”などに一斉にトランジスターラジオの製作記事が載り、大変に興味をもちました」

原少年は見たことのないトランジスターを見たかったし、ラジオを作りたかった。雑誌の後ろに載っている通信販売のパーツ価格表を参考に計算すると、4石トランジスター・イヤホン式のラジオで2万円ほどかかりそうであった。「父の月給と同じ位と思った。とても言い出せないと悩んでいたところ、ある日父が“トランジスターラジオを作ってみたいのだろう”といい、パーツを注文してくれた。たくさんの投資をしてくれた父にいつも感謝しています」