[北海道のハムの誕生]

嵯峨さんに水を向けられた藤縣さんは「やってみたいが機械がなくて・・・」と答えた。嵯峨さんは「機械があればやりますか」と聞き、藤縣さんが「やりますよ」というと、嵯峨さんは、ハートレー社製の受信機と送信機UX112を譲りますと申し出たらしい。ハートレーの送受信機は当時のハムにとっては垂涎の的の高級機であった。

その機械は京都放送局に転任した河野正一(当時J1DJ)さんが置いていってくれたものであった。官吏であった藤縣さんはただでもらう訳にはいかず5円を支払って譲り受けた。北海道ハム第1号誕生の裏話である。藤縣さんは札幌放送局勤務の橋本數太郎、河野七郎、伊藤誠一さんらにも勧める。橋本さんがハムとなったきっかけである。

札幌1中時代、J7CGとなった田母上さんとシャック

河野、伊藤さんはともに翌昭和5年に開局。その頃、田母上さんや直井さんは札幌一中の生徒であり、家も隣り同士だった。2人はそれぞれアンカバーをやっていたが、ある時、直井さんがアルゼンチンからのQSLカード欲しさに住所を送信した。それが仙台通信局の監視にキャッチされ、札幌通信局に呼び出される。

出頭すると担当は藤縣さんだった。「君の隣りの田母上さんもアンカバーをやっているのはわかっている。この際、2人とも実験局を出願したらどうか」と諭される。3日後、2人は藤縣さんを尋ねて受験の話しを聞く。藤縣さんは出願書と他の通信局で出された問題と解答集を渡してくれた。藤縣さんは「毎日、通勤のバスの中から2人のアンテナを見ながら早く出願してくれたらと思っていた」という。

直井さんは昭和6年4月10日に検査合格、田母上さんはその年の12月5日に合格している。田母上さんは、アマチュア無線誌「CQham radio」の昭和34年(1959年)1月号と2月号に「私のりれき書」を連載している。また昭和62年(1987年)12月31日発行の「Rainbow News」第7号には「直井洌君の思い出」と題した一文を寄せている。両方の文章では年代の違いや、つじつまの合わないこともあったりするが、戦前の北海道のハムの姿でもあるため、しばらく戦前の田母上さんを追ってみる。

[田母上さんの学生時代]

田母上さんがアマチュア無線に興味をもったのは昭和3年(1928年)、旧制中学1年の時であった。ハートレイの0-V-1受信機を作り、毎日ダイヤルを回して何かしらの電波を聞いていた。もちろん、その電波の波長はわからない。翌昭和4年、札幌放送局が開局されたため、田母上少年は技術部を訪ねて波長の測定を相談する。当然のことながら「中波、長波の波長計はあるが、短波帯はない。札幌通信局にはあるだろう」といわれる。

田母上少年は勇んで通信局を訪ねる。実はこの頃、短波を受信するだけでも試験を受けて免許をとる必要があった。それを知らなかったため、田母上さんは叱られ、受信機を使用できないように封印するため今すぐに係官を派遣するといわれてしまう。

係官はまだハムの免許を取得する前の藤縣さんであった。藤縣さんは波長計を持参しており、すぐに波長を測定し始めた。さらに波長が35mから80mになるように同調回路を調節し、校正もしだした。封印されるとばかり思っていた田母上少年が驚いていると「受信機は短波帯は受信できなかった、と報告しておくからね」といって帰ってしまった。「この厚意がなければアマチュア無線をやっていなかったかも知れない」という。

田母上さんは機器の改造にも熱心であったが、行動もアクティブであった。当時、流行し始めていたケミカル整流器による交流化をねらい、変圧器、チョークコイルを自作、鉛棒とフォーミングしたアルミ板によるケミカル整流器を作った。さらに、受信機には多極管使用を考えたが手に入らない。そこで東京への修学旅行の折りにオランダの駐日大使館にオーヘン参事官を訪ねて相談した。

オーヘン参事官もハムであることを知っての訪問であったが、親切にも自国のフィリップス社の真空管A442、B443Dを研究用として取り寄せてくれることになった。真空管は4カ月後に届き、多極管受信機を作り上げた。昭和8年のことであり、わが国でも多極管使用はほとんどなかった頃である。

ちなみに、一緒に免許をとった伊藤さんについて少し触れる。伊藤さんはドイツの飛行船ツェッペリン号が日本にやってきた折、カムチャッカ上空飛行中のツェッペリン号と14MHzで交信、日本ハムのQSO第1号となった。以上が田母上さんの「私のりれき書」に書かれている内容である。次回に約30年後にかかれた「Rainbow News」の内容を紹介する。

昭和9年の田母上さんのQSLカード