JA8ATG 原恒夫氏
No.4 北海道の戦前のハム達(3)
[Rainbow News第7号]
田母上さんは「Rainbow News7号」に、親しかった直井さんのサイレントキーにともなう思い出を書いている。それによると、中学2年の時に東北帝大在学中のお兄さんがUX112A真空管を使った0-V-1受信機を持って帰省した。田母上さんがいじっているとモールス信号が聞こえてきた。
その様子を窓越しに見ていた直井さんが「俺にも聞かせろ」と受話器を耳に当てて、しばらく聞いていたが「これはおもしろそうだからやらないか」と言い出した。田母上さんがお兄さんに相談すると「中学生にとってむつかしいのは無線工学だけであり、あとは熱心にやれば何とか合格できる」といわれた。
その後、2人はお兄さんの揃えてくれた参考書で勉強するとともに、毎日「新聞電報」を聞いてモールスの訓練を始めた。また、2人ともUX112Aのプッシュプル送信機を作り、それぞれの庭にツェッペリン空中線を張り、受信を楽しんだ。モールス信号は3カ月程度で自信がもてるようになったこともあり、アンカバーでの送信をやることになり、直井さんがJ7CF、田母上さんがJ7CGのコールサインで毎日のように送信していた。
当時のラジオ受信機
余談であるが「新聞電報」とは、新聞社が毎日のニュースをCW(電信)で有料送信するもので、船舶や海外在住の日本人がおもな対象であった。大正13年(1924年)に、現在の時事通信社とは関係のない時事無線通信社が最初に始めたらしいが、その後は徐々に各新聞社が実施するようになる。この流れは、最近ではFAXなどによる伝送に移行している。
翌年の3月、直井さんがアルゼンチンのQSLカード欲しさについに住所・氏名を打ってしまい、仙台通信局の監視員にそれを聞かれ、2人とも札幌通信局に呼び出された。係長の藤縣さんは、未成年の2人には始末書だけで処理し、すぐ出願するよう命じた。2週間後に願書を持っていくと、すぐに別室で試験を受けることになった。
合格した2人に、藤縣さんはJ7CEを空白とし2人にはアンカバーの時に使っていたコールサインを割り当ててくれた。昭和6年(1931年)のことである。その直井さんは東京・目黒の無線電信講習書を卒業後、貨物船や貨客船に乗務し、戦時中は輸送船で通信を担当、戦後は戦中に受けた傷が悪化したため療養生活を続け、昭和59年(1984年)の11月に亡くなられた。
[電話専用の橋本さん]
橋本数太郎さんについては、田母上さんが次のようなことを平成4年(1992年)11月発行の「道産子ハム奮闘記」に書いている。「実験局の場合は、許可人とは別に通信従事者が有資格者であれば、学校や通信会社の場合と同じく免許になるだろうといわれていた。個人の場合この規定が適用できるか疑問があったが、札幌逓信局と逓信省との協議の結果、特例として認めてもよいことになった。」
平成初期当時の田母上さん
この結果「橋本さんは知人の1級通信士である佐伯一夫さんを専従者に選任して、免許を申請した。そのため、橋本さんは戦前は一度もCW(電信)では交信したことがなかった」という。田母上さんや直井さんは橋本さんのところに遊びに行き「電信で電波を出した」と書いており、事実であったらしい。「宮井コールブック」で橋本さんの免許取得日が2説あったのは、最初は佐伯さんの免許取得日を記したための誤りと思われる。
その橋本さんとの交信を詳しく書いているのが、当時、朝鮮(韓国)京城に住んでいたアンカバー局の松永茂俊(後J8CA、JS1LPK)さんであった。昭和7年頃、自作ラジオで7MHzを聞くと、初めて聞こえてきたのが橋本さんの声であった。この頃、朝鮮ではアマチュア無線が許可されていないため、やむを得ず、松永さんはアンカバーを始めた。
電話(音声)では身元がわかると判断し、CWで波を出すと最初に応答してくれたのがやはり橋本さんであった。松永さんは橋本さんと何回も交信し、カード欲しさに住所・氏名を送った。「あの人は人を疑うことを知らない方で、私を一人前扱いして下さり、カードも送っていただいた」と松永さんは昭和61年(1986年)に「Rainbow News」に書いている。
松永さんは「アンカバーでいくらQSOしても国内外からはカードは来なかった。あるJ3局と交信した時は「DON’T TEST NO LICENCE WIIL QSO AFTER LICENSED」と叱られたという。それだけに、橋本さんのやさしさがうれしかったものと思われる。橋本さんの名誉のために付け加えておくと、先に触れたとおり橋本さんは戦後立派にJA8RTを取得している。
ついでに触れておくと、松永さんはこの一件で朝鮮通信局に呼び出されるが、未成年であったため始末書だけで済んだ。その後も、同じ京城市内に住む山中勇(後のJ8CB)さんとアンカバー同士で交信するようになり、再び呼び出されるが、山中さんが朝鮮総督府の役人であったことから不問に付されている。