[増加する北海道のハム]

戦前の「JARL News」を丹念に見ていくと、橋本数太郎(J7CB)さん、河野七郎(J7CC)さん、伊藤誠一(J7CD)さんが盛んに消息を投稿している。このほか、田母上(J7CG)さん、直井洌(J7CF)さん、河本富士男(J7CJ)さんらの名前も見つけることができる。

昭和9年当時の河本さんのQSLカード

消息とはどんなものかというと、例えば橋本さんは、昭和5年(1930年)の7月に「電話で頑張る。水晶発振に替える」と報告。河野さんは6年の3月に「免許の延伸願を7年2月13日までにするのでよろしく」河本さんは昭和7年10月に「当地ますます寒くなるのでDX-timeにはなかなか骨が折れます」と便りを出している。

昭和8年6月には伊藤さんが「コンデンサーがパンクして、KX280一本フイ、これで先月と合わせて五本」などと悩みを訴えている。この頃の「盟員ニュース」欄は、J7エリアのメンバーに限らず、失礼ながらたわいのない報告で埋まっている。昭和11年(1936年)には、JARLが14MHzでコンテストを実施、橋本さんが3位、河本さんが7位に入り、北海道勢の健闘振りが紹介されている。

昭和11年、函館中学5年生だった藤山四郎、渋谷兵衛、上野正雄さんの3人は「理化研究会」を作り活動していたが、全員が合調語のモールス符号を3週間程度でマスターし、アンカバーを始めた。ほどなくして札幌通信局監視部に傍受され、藤山、渋谷の2人が捕まる。合調語については別の連載「関東のハム達。庄野さんとその歴史」に詳しく紹介している。

3人は監視員の畑山乙樹さんに諭されて実験局の免許を申請し試験を受けて合格。藤山さんは卒業後東京の日大に進学し開局を断念。上野さんは同じく東京の無線電信無講習所に入りJ7MDとなる。一方、地元の北大に進んだ渋谷さんは昭和12年(1937年)6月にJ7CTを開局。これが北海道での戦前最後のアマチュア局となった。

J7CT時代の渋谷さん

上野さんは戦前の開局の模様を「道産子ハム奮闘記」に書いている。無線電信講習所の1年先輩には杉山義郎(J2IP)さん、庄野久男(J2IB)さんがおられ、いろいろと指導を受けた。昭和14年(1939年)6月にコールサインをもらい、リグを製作。「月15円の小遣いでは終段管に安いUY47しか買えず、マイクは渋谷さんからもらい、キーは練習用を使用した」という。アンテナ張りは藤山さんが手伝った。

[猛烈に活躍した田母上さん]

田母上さんは戦前、戦後を通じて多くの文書を残してくれている。事実、田母上さんの活躍振りは目覚しく、DXでは有数の成績を残した上、戦前、戦中は海外でも活躍し、ほか北海道時代にはわが国初の非常通信を行ない、貢献している。田母上さんの文書がなければ、北海道の戦前のハムの歴史はこれほどまでにわからなかったと思われる。

その非常通信は昭和7年(1932年)3月21日の函館大火の時である。強風が吹き荒れたこの日、漁師の家から出火し函館市の90%が焼けてしまったといわれている。北海道と本州を結んでいた海底電線の中継局も焼失し、通信は現在の綾別郡落石市にあった落石無電局のみとなり、行政の重要連絡さえ困難な状態となってしまっていた。

札幌市に住んでいた田母上さんに、北海道庁の実験局準備委員の木村さんが「何とか内務省と連絡を取り協力してもらえないか」と依頼してきた。当時は非常通信も目的外通信として処罰される。田母上さんは悩んだか゛「アマチュア無線スタートの時から人々の善意に支えられてきた。また、この寒空の被災者のことを考え引きうけることにした」と、「CQham radio」の昭和34年(1959年)1月号に書いている。

田母上さんは東京警視庁(J1AB)と埼玉県庁(J1AD)を呼び続けるが応答がない。必死で呼びかける田母上さんの通信に異常を察した東京の鉾立舜一(J1DR)さんが有線で東京警視庁に連絡、ようやく交信ができ被害状況、必要な救助物資の発送依頼などを送る。

ところが東京警視庁からの返事がない。駄目だったかとダイヤルを回すと埼玉県庁が呼んでいる。「東京警視庁の送信機は故障した。受信だけして内務省に連絡する。返事は埼玉県庁から送信する」と聞いて田母上さんは安心する。しばらくすると札幌通信省の係官がやってきて「免許外の通信である。送信を停止しろ」という。北海道庁の係官と「有線が開通するまで見逃して欲しい」と頼み込む。