JA8ATG 原恒夫氏
No.14 教師となった原さん(2)
趣味のアマチュア無線はどうなったのか。三方を山に囲まれ立地は良くないと思っていたが、ダイポールアンテナで7MHzが、また、1/4のGPアンテナで50MHzが高感度で入感し、交信も忙しくなった。そのうちに、アマチュア無線をやっていることが知れわたると、学区内の人達からのラジオ、無線機、テレビなどの修理依頼が増えだした。
[原・家電修理サービス店?]
修理依頼は、やがて洗濯機、冷蔵庫などの“電化商品”にまで及んでくる。数をこなすうちに何でも修理できるようになった。修理用の部品は隣町の電気店から買ってきて、無償でやっていたが、電気店も「修理依頼があっても遠い距離であり、途中、荒天の時には波をかぶってしまう崖際の道が怖い。助かってます」といわれ、住民からは「電気店に頼んでもすぐに来てもらえないので、大助かり」と感謝された。
「私も、たびたび修理用部品の仕入れに行けないので、必要部品は大量に買い求めて在庫を持つようにまでなっていった。年末になると、ラジオ、テレビの修理が殺到し、大晦日は大忙しだった。学校は休みでも修理に追われ、年末年始は実家に帰れなかった」という。
一方、アマチュア無線用部品は、簡単に入手できない場所ではあったが、逆に収入は恵まれた。25%増しとなる辺地手当の他、多学年担当手当、夜間の校舎見回り手当など、野口校長先生から「40歳の月給に相当する。毎月、貯金をせよ」といわれ、信託銀行の申込書を渡された。原さんは校長の温かさを今でも思い出している。
[太田小中学校クラブ局]
生徒達のアマチュア無線に対する関心も高まってきた。原さんは生徒の免許取得のために「養成課程講習会」の開催を計画。調べてみると「講師になるためには2アマ(第2級アマチュア無線技士)以上の資格があれば良い」といわれ、2アマに挑戦する。昭和44年(1969年)の12月2アマに合格。第1回の講習会は45年(1970年)の春休みに太田小中学校で開催された。
2名必要な講師のもう一人は、同じ檜山支庁管内・厚沢部町の寺田功(JA8ASC)校長に依頼した。講習は太田小中学校生徒の他、父兄や野口校長以下の職員が受講し、生徒では小学校4年生以上のほとんどに当たる26名が資格を取得した。そして、翌46年(1971年)4月には太田小中学校アマチュア無線クラブJA8YIMが発足する。
「学校のアマチュア無線クラブは、単なる趣味であってはならない」と原さんは考えていた。外部との「交流教育」とともに、生徒の科学研究に役立つ「科学クラブ」の2面をもったものにしたい、と動き出した。ハムを通じての「交流」では、クラブ局の生徒10名と交信した人に「YIM指導者賞」アワードを設け、賞状と盾を贈ることにした。「指導者賞」は、生徒を指導してくれたことへのお礼を意味するものだったが、このアワード実施のおかげで呼びかけが急増した。
昭和41年(1971年)、太田小中学校アマチュア無線クラブJA8YIMが開局された
[科学教育の成果]
一方の「科学クラブ」活動では、夏休みを活用して144MHzの電波の伝播状況を調査した。学校から電波を出し、生徒は八木アンテナを持って渡島半島を回って、飛んでくる方向や信号強度を地図上にプロットした。調査中のある時スパイと間違われて警察官に問いただされたこともあった。
この成果は、読売新聞社主催の「全日本学生科学賞」の北海道知事賞となり、さらに、全国3位に入賞した。辺地の小規模学校の活動として評価されたものだった。それより前の昭和43年(1968年)の秋のことであった。檜山支庁主催の「青少年の発明工夫展」を締切り10日前に知り、生徒によびかけたところ興味を見せた生徒が多く「毎日、放課後に考えて出品しよう」と取り組んだことがある。
とにかく間に合った10数点を出品すると、檜山支庁賞、学校賞などを独占してしまった。翌年は朝の学級活動の中で10分間の「発明タイム」の時間を設けて、アイディアを発表させるようにした。また「発明ノート」をつくり、アイディアを思いついたら書き込ませるようにした。100以上のアイディアを考え出した生徒もおり、積極的に取り組んだ結果、この年にも学校賞を独占してしまった。全国の「発明工夫展」にも入賞し、その後も同校は全国的な話題校の位置を保ち続けた。
夏休みには生徒が144MHzの伝播調査を行った。写真は奥尻島の反射による伝播を調べるため、学校のアンテナを調整しているところ。
[バンコク日本人学校勤務]
このような原さんの太田小中学校での教育活動は、当然のことながら教育界の注目を浴び、昭和47年(1972年)2月に北海道教育委員会から「教育実践表彰」を受ける。通常、定年近くになった教師の受賞するものであり、北海道での最年少受賞であった。しかし、その頃、原さんにとってはそれとは別に気になることがあった。前年の末に申しこみを行ない、2月初めに面接を受けていた「海外日本人学校派遣教員」の結果であった。