JA8ATG 原恒夫氏
No.18 原さんのハム活動(2)
[電波で高校総体に参加]
原さんは新しいことにも挑戦した。昭和62年に函館で高校総体が開催されることになった。「電波で高校総体の広報活動ができないか」と提案し、高校総体推進事務局に相談し了承してもらう。「電波で10万局に高校総体をPR」の企画書を作り、北海道内の中学、高校、大学、専門学校の43のアマチュア無線クラブに提案して、連携して活動することになった。準備は開幕1年半前の昭和59年(1984年)初めから始められた。
交信(QSL)カードを50,000枚印刷、各クラブに1,000枚ずつ送るとともに、年間2回の「事務局だより」を発行。事務局は八雲養護学校無線クラブが引き受けたが、これまで何かにつけて受身の立場であった養護学校生徒も自信をもつ効果が生まれた。原さんにとっては「それが一番うれしかった」。保護者や医師の許可を取り、クラブ員らは総体開催の前年に行なわれた「プレ大会」に参加し、本大会には開会式に加わった。
高校総体のためのQSLカード5万枚の発送作業
[国際青年年特別局]
原さんの八雲時代の思い出には、IYY(国際青年年)を記念した特別局を八雲に設け、運用したこともある。昭和60年(1980年)6月1日から30日間、8J8IYY局が運用された。この特別局は、IYYを記念して、アマチュア無線を通して、青年年のテーマ「参加、開発、平和」についてともに考え参加する、ことが目的であり、日本ユニセフハムクラブの事業として企画された。
八雲アマチュア無線クラブなど地元の4つのアマチュア無線クラブが会場探し、アンテナ建てなどを行ない、原さんはもちろん、八雲ローカルにとっても初の特別局の管理運用を実施した。幸い、会場には廃校になった校舎を借りることができ、開会式にはJARLの原昌三(JA1AN)会長などが出席、第一声を青少年の代表として高校生の今村英幸(JG8GNW)君が出してオープン。
原さんはマスコミの取材に対して、「交信目標は3万局」としゃべってしまう。「しまったと反省したが、始めてみると1日に4000局交信の日もあり、最初の1週間で目標は達成できそうな状況となった。終わってみれば32,000局の交信となった」という。ただし、その後のQSLカードの処理には20人で12時間かかった。
高校総体開会式では、車椅子に乗って生徒は参加した
[北海道ハムフェアの開催]
原さんは、毎年東京で開かれるJARL主催の「ハムフェア」には、ユニセフハムクラブの出展参加と見学を兼ねて出掛けていた。昭和62年(1987年)の東京からのフェアの帰りに夜汽車の中で、フェアの興奮が冷めない原さんは「北海道でもハムフェアができないかな」と、一緒に行った村井さんにぼやいた。
村井さんはNTTに勤務しており、情報関連の先端知識をもち、原さんの相談相手であった。村井さんはこともなげに「できますよ」という。北海道に戻ってしばらく後に「日本ユニセフハムクラブ」の札幌支部の市川勝治(JA8RRX)さんに相談すると、やはり「できます」という。原さんは、市川さんと会場探しをするとともに、経費をはじいてみた。
原さんは、各地で活躍しているハムクラブの出展料は無料としたかった。そうすると、必要経費は約500万円のうち、無線機器関連メーカーやハムショップの出展料で250万円を集めないと成り立たないことがわかった。原さんは早速、山形県や九州の「ハムフェアを見学に回るなど情報を集めた。その結果、リグやジャンクの購入目的の来場者も多く、また、会場は車社会を反映して都心部でなくともよいことを知った。
実行委員会を立ち上げるため、呼びかけると100名を超える応募があったが、ハムショップ、メーカーの出展は順調に進まなかった。悩んでいる原さんに出展応募最後の日、札幌にあるハムショップ「ハムセンター札幌」の西田豊(JA8SS)社長から電話があった。「アマチュア無線の皆さんが一所懸命にやっていることであり、日頃お世話になっているお礼をこの機会にします」といい、次々とメーカーの出展をまとめてくれた。
フェアは成功した。開催に合わせて記念誌「HAM RADIO IN HOKKAIDO」を発刊した。クラブ局の紹介に紙面を割き、また、太平洋戦争開戦のために戦前、ハムになり損ねた千葉憲一(JA8AC)さんらの寄稿も掲載した。フェアは成功したものの、原さんをはじめ実行委員会のメンバーには不満が残った。関係機関が協力的でなかったことである。原さんは、ホームページに、この問題に多少触れているが「どのように障害になったか、細かくは書きません」と避けている。
原さんは、この頃、日本ユニセフハムクラブ会長、八雲アマチュア無線クラブ理事をしていたが、この「ハムフェア」をきっかけにJARL(日本アマチュア無線連盟)に関心をもつ。「JARLをアマチュアのための組織にしなければならない」と、役員に立候補することになった。実行委員会の何人かも同じ思いで立候補した。