[JARL理事に] 

DXで活躍する加藤さんの名前が知られるのにともない、JARLの重要な立場で貢献して欲しいとの要望が周囲から高まってきた。とくにJARL北海道地方本部長になっていた原さんから盛んに打診された。原さんは、先にも触れたが教育の場でアマチュア無線の効用を活用し、また、日本ユニセフハムクラブの会長としてボランティア活動にも奔走していた。

まだJARLの一会員であった原さんは昭和63年(1988年)に「北海道ハムフェア」を企画して開催する。その時の関係組織の対応に不満をもったフェア実行委員会の支援を得て、JARL役員に立候補、平成2年(1990年)本部長に就任していた。学校教育、ボランティア活動、JARLの任務と原さんはアマチュア無線の発展に取り組んでいた。

加藤さんの無線室の一部

[死からの生還] 

加藤さんは最初のうちは知らなかったが、原さんはB型肝炎の感染者であり、病院では「20年後ぐらいに肝臓障害が起きます」と指摘されていた。タイの日本人学校の教師時代に”使い回し”の注射器からの感染が推定されていたが、指摘された通り20年後の平成5年(1993年)に体調に異変が起きる。

その後、病状は徐々に悪化し平成10年(1998年)ころからは短期の入退院を繰り返さざるをえなくなっていた。結局、原さんはその後生死の境を体験した揚げ句、ヘリコプターで札幌の病院に運ばれ、肝臓移植を受けて生還する。この余人が体験できない記録は、先に紹介した連載に詳しい。

[落選して当然だろう] 

平成13年(2001年)年末、加藤さんに原さんから「遊びに来ないか」と連絡があった。原さんは生命の極限を体験した後、休職してまだリハビリ中であった。しばらくアマチュア無線の話しが続いたが、原さんが「アマチュア無線のため、JARLのため、さらに北海道のハムのために、JARLの理事になり手伝って欲しい」と切り出した。加藤さんは「自信がなかった。理事になるためには立候補し選挙で選ばれなくてはならない。とても無理と思った」が、体調が悪いなかで再び活動を始めつつある原さんの意向には背けなかった。

加藤さんは翌年、理事に立候補する。「とても当選するとは思えなかった。立候補のあいさつのハガキ代もかかる」と、立候補が正しいのかと疑問になった。しかし「落選して恥じをかけばそれで良い」と腹を括った。が結果的には当選した。加藤さんは不思議に思っているが、全国的に加藤さんのコールサインが知れ渡っていたことが当選につながったといえそうだ。

[NPOラジオ少年] 

今、加藤さんは多忙である。原本部長の代行として管内の支部の行事に出かけることも多い。原さんが始めたボランティア「NPOラジオ少年」の手伝いもある。もちろん、自営の仕事があり、これも忙しい。「NPOラジオ少年」は、ゲルマニュウム、真空管ラジオなどのキットを作り安く提供し、その収益を青少年のアマチュア無線支援に使うという主旨の事業である。

キットづくりは原さんとそのご家族が中心になって行われているが、北海道のハム仲間も支援している他、原さんのこれまでのネットワークに支えられ、何度かマスコミにも取り上げられ、また支援者も全国に広がってきた。すでに、収益は若いハム達のアマチュア無線活動に提供されている。

[科学教育を] 

理事になった加藤さんには、JARL会員からさまざまな話しがもち込まれる。アマチュア無線やJARLを活性化させるための要望もあれば、手厳しい批判もある。加藤さんは「そのいずれをも参考にしたい」と考えている。なかでも、真剣に考えているのが「減少を続けているアマチュア無線局の数を増やしたい」と言うことである。

これまでもハムを増やすためにさまざまな試みが行われてきた。ラジオ製作教室、ARDF(アマチュア無線方向探知)競技、国際宇宙基地と交信するアリススクールコンタクト、電波の知識を知ってもらう電波教室などである。「参加した子供達はみな面白かった、と言ってくれるが、それで終わってしまう。その後をアマチュア無線に結びつける方法が難しい」と考え込む。

また、原本部長が中心になって進めている「NPOラジオ少年」についても「キットを組立てることにより無線に興味をもつようになるはず」と期待している。さらに、災害時に「アマチュア無線が非常通信を行い社会に大きく貢献している姿も紹介していく必要がある」と指摘する。

加藤さんが憂慮していることは「小中学校における科学教育離れ」である。「かつての子供と比較すると最近の子供は基礎的な科学知識がないように思うし、科学に目を輝かすような好奇心をもたない」という。数年前に始まった”ゆとり教育”の結果、授業時間が減っている。とくに、物を創造するための時間が少なくなっている」と心配している。

原さんは筋ジストロフィーの生徒にも免許をとらせた。ベッドの生活しか出来ない生徒は輝く顔で交信した

[アンテナの重要性] 

加藤さんのシャックのある家の敷地にはアンテナタワー6本がそびえているいることはすでに紹介した。最盛時には8本もあった。日本有数のDXerである加藤さんのアンテナへの思い入れを最後に紹介したい。アマチュア無線を始めた当初、加藤さんは「アンテナには無線機と同額の金をかけろ」と教えられた。しかし「実際には面倒であり金をかけられないのが実情。そのため最初は簡単なダイポールアンテナを使った」と言う。

アンテナファームと呼ばれている加藤さんの6本のアンテナ

その後もしばらくは増力のためにリニアアンプを追加するなど、無線機のグレードアップに力を入れてきたが、徐々にアンテナの重要性に気がつく。その後は「国内外のアンテナに関する情報を徹底的に集め、理論的に良いと思うことは取り入れてきた。どんな立派な無線機でもアンテナによって効能が左右されてしまう。アンテナを軽視してはならない」と警告する。