昭和22年(1947年)、米国の教育制度を見習った「学校教育法」が制定され、中学5年生は新制高校(現在の高校)の2年生となる。新制高校が発足した昭和23年(1948年)4月に円間さんは三国高校2年生となった。「旧制女学校から進学組の5、6名が編入され、教室はなごやかになったことが印象に残っている」と円間さんはいう。実質的には2年間の学校生活延長となり、ゆっくりとした授業速度となった。時間に余裕ができた円間さんはクラブ活動に力を入れ、小電力のワイヤレスマイクを校内で実験、送信機の概念を学んでいる。

昭和24年(1949年)の秋、円間さんは母親に頼み込み修学旅行をやめて、そのお金で短波受信機の部品一式を買ってもらう。もはや、立派なラジオ少年になっていた。クラブの友人のアドバイスや、発行されて間もない電波雑誌「CQ ham radio」を参考に、高周波増幅1段、中間周波増幅1段、バンドスプレットとCW用のBFO(ビート・フレケンシー・オシレ―ター)をもたせた「通信機型」のスーパーヘテロダイン受信機を自作する。

自作の短波受信機

作り上げた受信機は高感度、高選択度であり、多くの海外短波放送を受信することができた。BBCの「This is radio London」のビッグベンの鐘の音、オーストラリアの川蝉の鳴き声を深夜まで聞き感激したのもこの頃である。

他の連載でもたびたび触れているが、わが国では戦後容易にアマチュア無線が再開されなかった。このため、再発足したJARLは、各地の会員にクラブを結成させたり、短波受信を通じて、来るべきアマチュア無線再開のための勉強を働きかけていた。短波受信推奨を目的に、昭和23年(1948年)11月にはSWLナンバーを発給している。

[ハムへの道]

SWLナンバーは各エリアごとに区分され、円間さんは北陸エリアのJ8を付けた「J8-56」を公布された。SWLナンバーはコールサインでもなく、価値のあるものではなかったものの、会員はコールサインをもらったかのごとく喜んだという話も多い。やがて、円間さんは短波放送や、海外のアマチュア無線を聞きSWLレポートを送り、QSLカードをもらうようになる。

「J8-56」のSWLナンバーをもらい短波受信に力を入れた

当初、アマチュアバンドを探すのに苦労した円間さんであるが、やがて聞こえてくる場所、時間がわかりだした。アマチュア無線は電話は英語を使っており、理解できなかったために電信(CW)から入ることにし、1人でモールス符号の勉強を開始する。カードに符号を書き、英単語を覚える要領で暗記をしていったが、この当時は実際に聞いていても10文字のうち、1文字か2文字しか理解できなかった。

初めて手にしたQSLカードはフィンランドのOH8NC局からであり、JARL経由で送られてきた。世界的にQSLカードの交換業務は、QSLビューローが取り扱っており「QSLビューローの世界にまたがった組織に驚いた」という。

昭和24年春ごろから読み始めた「CQ ham radio」には、大河内正陽(戦前J2JJ、後JP1BJR)多田正信(J2GY、JR1WDN)斎藤健(J2PU、JA1AD)笠原功一(J2GR、JA1HAM)柴田俊生(J2OS、JA1OS)森村喬(J2KM、JA1LKJ)米田治雄(J2NG、JA1ANG)さんらが多彩なテーマで執筆していた。

「CQ誌は以前から欲しかった初心者向けの無線技術の解説の雑誌で、しかも実践向けのものであり、送信機、受信機のほか、測定器、電波伝搬、新技術など全般に及び、バイブル的な存在でした」と、当時のことを円間さんは語る。「残念ながら昭和26年2月以前の10冊は紛失したが、その後の53年分は今でも持っている」と円間さん。

[就職 社会人]

旧制中学、新制高校を通じて成績は悪くなかったが、父親が健康を害して療養中であり、しかも兄弟が多い。進学をあきらめ地元の電報電話局(電気通信省)業務係の職を得る。技術系で働きたかったが願はかなわず、仕事は電話加入申しこみ、移設などの処理、顧客応対などであった。社会人となったが、アマチュア無線に対する思いはますます強まっていった。

高校時代の物理クラブで1年後輩であった杉田泰(後JA1BII)さんに誘われて、福井市にできていた「福井県アマチュア無線研究会」に参加し、戦前のハムであった田畑太市(J2CZ、後JA9AP)さんを知る。田畑さんは昭和22年(1947年)に研究会を発足させた。円間さんは、その後は田畑さんの教えを受けて、アマチュア無線の道を進むことになるが、この頃はアマチュア無線がいつ再開されるのか、情報は皆無であった。