[若かった北陸のハム達]

再び、円間さんの話しに戻る。円間さんが「福井県アマチュア無線研究会」で知った田畑さんは、昭和11年(1936年)に免許を取得、北陸では2番目にハムとなった。もっとも早かったのは吉本正二さんである。昭和9年(1924年)であった。戦前、ボランティアでコールブックを発行し続けた和歌山市の宮井宗一郎(J3DE)さんの資料で調べると、戦前の北陸のハムは7名である。

しかし、その7名のリストを眺めながら円間さんは「浅井さんという方が福井におられたはず」という。平成8年(1996年)に藤室衛(JA1FC)さんが作り上げた「戦前のハムリスト」には浅井曄三(J2DE)さんの名があるものの住所がわからず、とりあえず東海地区のハムと推定していた方であった。円間さんは浅井さんの甥子と連絡をとりれっきとした「北陸のハム」であった証拠資料を集めた。

北陸の戦前のハムリスト

この結果、戦前の北陸地区のハムは8名であることがわかった。当時のJ2エリアは東海3県、北陸3県に加えて長野県で構成されていた。東海3県が21名、長野県が6名であり、現在の全国10エリア単位で比較すると、北陸の8名は最も少ないが人口や経済力から判断すると、この程度だろうというという気がする。

最初のハムである江戸さんの免許が昭和6年(1931年)であり、この時は「電話局」で取得したため、コールサインはなく「江戸重富」名で交信していた。その後、大阪でJ3DZとなり、J2DOは金沢に帰った昭和13年(1938年)に取得した。北陸での最初の「電信・電話局」は吉本さんで昭和9年(1934年)の免許である。

現在の全国10エリア単位で調べると、他のエリアのほとんどでは昭和5年(1930年)までにハムが誕生しており、北陸はもっとも遅いハム誕生である。しかし、皆の年齢が極めて若かったという点で、他のエリアは脱帽せざるをえない。リストのなかで、松岡さんの生年月日が不明であるが、ほかの7名はいずれも10代、20代である。同じJ2エリアの東海3県が高齢者ハムであったのと比べて対称的であった。

わが国のアマチュア無線は、大正13年、14年(1924年、1925年)頃からアンカバー通信が始まり、大正15年に関東、関西のメンバーが集まりJARLが発足している。このような動きには北陸は無縁であった。正式にアマチュア無線局(当時は私設無線電信電話実験局)の免許が公布されたのは昭和2年(1927年)秋の9局であり、当然ではあるが、そこには北陸地区の人の名はない。

JARLは昭和6年に第1回全国大会、8年に第2回全国大会を開催しているものの、北陸から参加した記録は見つからなかった。昭和6年7月のJARL関西支部例会に江戸さんが参加しているが、当時江戸さんは大阪に居を移しており、いわば地元の会合である。北陸からは吉本さんが昭和11年(1936年)7月の関西支部の例会に参加、次いで、昭和12年4月に大阪・ガスビルで行われた第6回JARL全国大会に吉本、田畑さんが出席している。

昭和6年に開かれたJARLの第1回全国大会。北陸からの参加はなかった

[吉本さんの免許取得]

吉本さんが免許を取得したのは昭和9年(1934年)10月であるが、この9年度には全国ではすでに168名のハムが誕生している。当時は「電信・電話局」免許と「電信局」「電話局」免許があり、このうち「電話局」免許は全国で6名であった。ちなみに、もう一つ受信のみの「受信局」の免許もあり、この当時15名がいた。

昭和11年7月の関西支部例会出席者名簿、当時は出席者がサインした、J2CCの吉本正二さんの名がある

北陸でようやくハムが誕生した時、すでに中国(四国の1部を含む)や九州ではそれぞれ7名、東北では15名のハムがいた。吉本さんが免許を取得する以前の北陸の無線事情については何の資料もない。正式免許の第1号が昭和9年ではあるが、それまでにアンカバーの波が北陸の空を飛びまわっていたのかもわからない。

戦前のハムのほとんどは、ラジオ放送を聞いたのがきっかけとなって、ハムの道に進んだ。北陸では昭和5年に金沢市殿町にNHKが設けられ、ラジオ放送が始まった。東京、大阪、名古屋に比較して5年遅かった。その差がハム誕生の差となったといえそうである。

吉本さんのJ2CCは、三重県のJ2CB山口喜七さんに次いでJ2エリアでは2番目のコールサインであるが、それには理由があった。もともと、J2CCは長野県の宮澤友良さんがもっていたものであり、東京に転居したために空番となったコールサインを与えられたからである。

宮沢さんについて簡単に触れると、明治37年(1904年)に長野県諏訪郡平野村に生まれ、関谷病院のX線科に勤務していた昭和5年(1930年)5月に免許を取っている。同じ頃同じ村の林太郎さんがJ2CGを取得したが、この当時同じ村から2人のハムが出たのは珍しい。大正13年(1938年)に学校を卒業していた宮沢さんは、数年後に林さんとハムになろうと相談する。