[26歳で亡くなった浅井さん]

浅井さんについては円間さんが、浅井さんの甥に当たる浅井征三(JA9KA)さんから短い人生について聞いていた。それによると、浅井さんは醤油醸造業の家に生まれ、武生中学3年生の頃、体を悪くして中途退学し家業を手伝っていた。しかし、好きな無線の仕事に携わりたくてNHK福井放送局(JOFG)に勤務する。その後、高梨製作所、日本通信工業、国際電気通信会社へと勤務先が替わる。

NHK福井放送局では、浅井さんは「JARLアマチュア無線クラブ」に所属したらしく、開局の時の無線機は、放送局で組み立て調整した後、分解して自宅にもって帰ったという。古田さん、田畑さんの2人が浅井さんの自宅を尋ね、同じ北陸のハムとして楽しい会合をもったこともあった。

高梨製作所に移ってからは東京勤務となり、昭和12年(1937年)に14MHzの申請を行ったりしたが、日本通信工業に移ることになったり、さらに国際電気通信へと転職するなど、多忙なため、翌年の11月に免許を失効している。この東京時代には関東のハム達と交流を深めたらしく、当時のJARLの重鎮メンバーからの寄せ書きを送られている。

浅井さんのシャックと浅井さん。昭和12年

浅井さんに送られたJARLメンバーからの寄せ書き

国際電気通信会社では八俣送信所に勤務した後、ビルマ支局員として転出、寄せ書きはあるいはこの時のものとも考えられる。昭和20年(1945年)の3月に現地で召集を受けて、戦線で生死不明となり5月1日付けで、現ミャンマーのペグー橋付近で戦死とされた。26歳の若さであった。征三さんは、手元にある資料で父親の弟に当たる浅井さんの“生き様”をまとめてみたいと思いつつ、今日に至っているという。

[アマ無線から事業家に]

ハムよりも電子部品メーカーの経営者として知られている木村健吉さんは、旧性は武田さんであり、福光町で農業と製糸業を営んでいた武田家の次男だった。砺波中学から金沢高等工業の機械科に進むほど、学業は優秀だったという。アマチュア無線の免許は金沢高工時代に取得して熱中。卒業後は請われて城端町の木村家に養子に入る。

木村家は和紙の集荷を業としていたが、養蚕が盛んになると絹糸の集荷、羽二重の織物を始め、機業場をもつなど事業家として成功していた。養子となった木村さんは福井高校で織り物の勉強を始めるが、1年で止め富山県の高岡工芸の教師となり、機械工学を教えていた時期もあった。太平洋戦争が始まり、昭和18年(1943年)になると、東京品川にあった「日本抵抗器研究所」が、工場疎開の話しをもってきた。

キーをたたく木村さん。昭和12年

木村家の当主である外一さんは、工場経営をひきうけることになり、有限会社の「日本抵抗器製作所」を設立し、翌年には大阪に「大阪製作所」も設立した。ハムである木村さんは経営に参画したものの、ほどなくして召集を受けて出征。戦後の経営は苦しかったが、昭和23年(1948年)頃からラジオ受信機需要が増加、さらに2年後には朝鮮動乱による軍需が生まれ、軍用抵抗器の需要が増えた。

昭和28年(1953年)に有限会社から株式会社に変更するとともに、木村健吉さんが社長に就任、電気、機械の技術知識をもつ木村さんの力が生かされ、同社は民生用、産業用、軍需用の各分野で高品質な抵抗器を開発し、飛躍的に発展させた。現在は海外にも工場をもち、株式市場に上場し資本金は7億2千万円、売上約70億円(2002年12月期)の企業。ただし、木村さんの無線歴はほとんど残っていない。好きなエレクトロニクス事業に携わったことで満たされたと想像するしかない。

木村さんの晩年の頃

[コールサインを2つもった江戸さん]

江戸重富さんは金沢第1中学在学中に「電話局」の免許を取得した。「電話局」とはいえ、北陸ではもっとも早い免許である。また、大正3年(1914年)生まれで昭和6年(1931年)の免許は、17歳であり最年少であった。「電話局」免許は、当然、電信(CW)ができないが、同時にコールサインはなく、交信は名前で呼び合っていた。昭和9年(1934年)になるとコールサインが与えられるが、推定では有線電話の名残だったのではと思われる。

江戸さんは、日本放送協会(NHK)大阪局に就職のため、昭和6年(1931年)に大阪に転居し、市内上本町の調整室に勤務。11月にJ3DZを取得。JARL関西支部の会合などに積極的に参加している。また、江戸さんは実験にも熱心であり、先端的なことにたびたび挑戦している。

戦前のアマチュア無線局は「実験局」と位置付けられており、実験の結果は毎月詳細を管轄の逓信局を通じて、逓信大臣に報告する義務があった。関西の島伊三治(JA3AA)さんは、昭和8年(1933年)から昭和10年(1935年)までの大阪逓信局の「短波長実験報告処理簿」の内容を整理している。その中に、江戸さんの実験のいくつかがあり、島さんは「約70年前の江戸さんの取り組みにはただ敬服するのみである」という。