その江戸さんの実験の一つは、昭和8年4月に行ったアンテナ回路直列にマイクを入れる方式と想像される「直列変調」である。また、翌9年には5極真空管を使用した「サプレッサー変調」の実験を報告している。サプレッサー変調をこの当時考えたことに、島さんは驚いている。さらに、江戸さんはコンデンサーマイクまで試作している。

江戸さん。昭和13年、金沢に転勤後の写真

昭和12年(1937年)の12月、関西支部の忘年会を兼ねた例会に出席した江戸さんは、翌年、NHKの金沢局に転勤し、J2DOを取得している。どういうわけか、江戸さんは戦前、J3DZとJ2DOの2つのコールサインをもち続けた。このようなケースはほかではまずない。

[戦時下のハム達]

自由に電波を出していた北陸のハム達にも、戦争の陰が忍び寄ってくる。浅井さんが昭和11年に免許を失効したことはすでに触れたが、次いで、木下さんが昭和14年(1939年)3月、松岡さんが昭和15年(1940年)にそれぞれ失効している。松岡さんについては、いろいろ調べてみたが生年月日もわからなかったが、木下さんについてはいくつかのことがわかった。

昭和12年(1937年)7月7日、当時中国にあった日本軍は北京郊外の蘆溝橋を攻撃、その後8年間にも及ぶ日中戦争が始まった。中国での戦線拡大とともに日本からの部隊派遣も増え、その部隊間の通信の必要性も高まった。そこで、軍部は通信機の回路技術知識をもち、モールス信号も自在に打てるハムに注目、協力を求めてきた。陸軍航空本部は、この年の11月6日付けで「無線通信技術員募集要項」を配布、50名を募集しようとした。

募集の目的は「派遣軍飛行諸隊における無線通信掛下士官兵の勤務中、主として通信及び機材整備を担任し得る技術者を急速に補充す」(現代仮名遣いに変更)というもので、その後、何ヵ所かでハムを集めて説明会を開催している。関西支部では4日後の11日に臨時会合を開き、説明の場を提供している。J2の名古屋でも同様な説明があったと予想されるが資料はない。

[下志津での教育]

待遇は「軍属(雇員)とし、本人の経歴及び技量に応じ判任官の待遇を与う」とあり、月俸は「おおむね45円以上80円以内.事変地(戦地)に在っては別に戦時増給あり」と規定されている。雇用期間は「シナ事変中」とし、本人が希望すれば「事変終了後、引き続き陸軍技手または雇員」として就職できることになっていた。公募はせず「本照会に対する申し込み中から採用」のためか、結局17名しか集まらなかった。

待遇の「判任官」は、旧軍隊や、警察、消防の階級の一つであり、陸海軍にあっては「官吏」といわれた下士官以上を4等に分けたもの。最上級は「親任官」で、次いで「勅任官」「奏任官」「判任官」の順であった。ちなみに、「奏任官」以上が高等官とよばれていた。「判任官」は陸軍では曹長、軍曹、伍長であり、海軍では上等兵曹、1等兵曹、2等兵曹であった。

17名は12月になってから千葉県の下志津陸軍飛行学校で教育が始まり、約1カ月の教育を受け、年末年始にそれぞれ1時故郷に戻った後、2名の国内勤務を除く15名が翌年1月9日に門司に終結し、中国に渡り天津の航空兵団司令部通信班に配属となった。その後、北京に移動した後、各部隊に配属され活躍するが、兵役のため帰国した人、現地で戦死した人、終戦まで勤めソ連軍に拿捕された人などさまざまだった。

[中国大陸を転戦]

この15名の中に、北陸から田畑さん、木下さんの2人が参加しているが、詳しい記録はない。仲間の1人であった長野の堀口安(J2HC)と新潟の西丸政吉(J2MN)さんは、生前に17名の行動と消息を簡単に「RAINBOW NEWS」にまとめている。それによると、木下さんは第15航空通信隊に属し、北京、南京、漢口を経て21年頃、日本に戻っている。

15名のほとんどは第15航空通信隊か第15航空情報隊に所属したが、情報隊の編成は兵器や兵員の不足から延期され、要員は通信隊に臨時配属されたという。木下さんと同じ通信隊に属したのが、岸上英三郎(J4CU)さん、木村茂幸(J3GU)さん、西丸さん、中塚正明(旧姓・長谷川、J2ND)さんであったが、必ずしも皆が同じコースを辿っていない。

中塚さんは、南京まで、木村さんは漢口まで一緒のようであったが、中塚さんは昭和15年(1940年)に帰還、木村さんはサイゴン、シンガポールと南方に行き、昭和20年に部隊交代のため南京に戻り、さらに内地(日本本土)の通信隊と交代のため、平壌に滞在中に終戦となり、ソ連軍に拿捕され、昭和22年(1947年)まで抑留された。岸上さんは南京と台湾を飛行中に、山に激突し戦死している。

田畑さんのシャックと田畑さん