[松岡町で生まれる]

1936年(昭和11年)11月30日、柳原一成さんは福井県吉田郡松岡町(現永平寺町)で「福島屋」というラジオ店の長男として生まれた。家の2階には、ラジオ店を営む父親がお客様から下取りした古い受信機(ラジオ)がいくらでも転がっており、それらが幼少自体の柳原さんのおもちゃであった。6歳になると地元の松岡国民学校に入学する。小学生になると、柳原さんは古い受信機から部品を外して遊ぶようなり、自然にラジオ技術を身につけていった。

「箱型やラッパ型、国民2号型など、戦前の古い受信機やアメリカ製の受信機など、色々ありました。物心がついた時には抵抗やコンデンサ、真空管を触っていました」と話す。アマチュア無線家になるには絶好条件の柳原家であったが、柳原さんが小学6年の1948年6月、福井県坂井郡丸岡町(現坂井市)を震源とし、福井市を直撃した福井地震が発生。この福井地震は死者・行方不明者が3,769名という、日本では史上2番目になる甚大な被害をもたらした大地震であった。

松岡町にあった柳原さんの自宅兼ラジオ店も全壊し、さらに地震で発生した火災により全焼してしまった。「震災後、両親は家を建て直し、ラジオ店を再建したが、大変だったと思います」、「それでも、数年後からテレビ放送が始まったことで、テレビの販売や修理が増え、商売になったことは運が良かったと思います」と柳原さんは話す。現在でも、ラジオ店は、柳原さんの弟の長男が経営を続けている。

[中学生になる]

1949年、松岡小学校(松岡国民学校から改称)を卒業した柳原さんは、福井市内にあった北陸中学校に入学する。地元の松岡中学校は、名前だけは中学校でも、松岡小学校の敷地内にあって実質的には小学校の高等科という状況だったため、両親が心配して、きちんとした中学校である私立の北陸中学校に入学させたのであった。

中学生になった柳原さんは、初めて自分でラジオを作った。祖母から、「おまえ中学生になったけど、何かできるようになったことはあるのか」とからかわれ、奮起してラジオを作り祖母にプレゼントしたという。その頃から柳原さんは、ラジオづくりに明け暮れ、自分の作ったラジオでBCLを始める。「部品など、いくらでも手に入りましたので、自分は幸運でした」と話す。さらに、中学2年になると、家業の手伝いでラジオの修理を行うようになる。

柳原さんの父親一夫さんは、アマチュア無線はやっていなかった。興味はあったようだが、「スパイと間違えられると困る」という理由と、通信隊員として徴集される可能性もあるので、わざとやらなかったようだ。それでも仕事柄、アマチュア無線家の友人は多く、その縁で、柳原さんは父親の友人達から、いろいろとアマチュア無線のことを教えてもらうことができた。「福島屋さんの息子か」、と言って皆親しく接してくれたという。

[転校する]

柳原さんは、北陸中学校でバスケット部に所属し活動したが、部活の先輩には後にJA9FRで開局する高橋さんがいた。その他にも、同級生には、後にJA2YK(JA9CK)を開局する有田さんがいた。しかし戦後間もない当時の日本では、まだアマチュア無線は許可されておらず、これらを知ったのは後になってのことである。

中学2年になると、地元の松岡中学校が、松岡小学校から完全に分離して独立した中学校になったため、柳原さんは2年生の途中で北陸中学校から松岡中学校に転校した。松岡中学校でも部活は引き続きバスケット部に所属したという。1952年3月、柳原さんは松岡中学校を卒業する。この年の7月になってようやく日本でもアマチュア無線が再開される。

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現在の松岡中学校。(松岡中学校のホームページより)

[高校生になる]

1952年4月、柳原さんは福井市内の高志(こし)高校普通科に入学する。この頃からアマチュア無線の興味を持つようになり、戦前からのハムであるJA9AP(exJ2CZ)田畑さん、他からの推薦もあって、JARL福井クラブに入会する。この頃のJARL福井クラブは15人ぐらいのメンバーで構成されており、柳原さんが一番の若手であった。

後で分かったことだが、両親が柳原さんを福井市内まで通わせたのは、理由があった。柳原さんは、父親が福井市内のトランス屋に注文したトランスを学校の帰りに受け取って来たり、その他にも別の部品屋で、ラジオの部品を購入して来たりした。トランス屋の主人もアマチュア無線家であり、色々と話が聞けるので、お使いも苦にならなかったという。「そんなことを頼めるので、私を福井市内の学校に通わせた方が便利だと考えたのでしょうね」と柳原さんは話す。

[アマチュア無線部を作る]

高志高校に入学すると、柳原さんは仲間2人と組んで、合計3人でアマチュア無線クラブを作る。1人は後にJA9DWを開局する田中さん、もう一人は高校を卒業して就職してから別エリアで開局する田村さんであった。田中さんとは意気投合したが、2人ではクラブを作れないため、田村さんを半ば強引に誘ったという。

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高校生時代の柳原さん。

話は変わり、柳原さんが始めて買ったCQ誌は、1953年3月号である。福井クラブの先輩から「為になるアマチュア無線の雑誌があるから購入してみたらどうだ」と言われ、福井市内の本屋で探したところ、たまたま1軒の本屋に1冊だけ残っており、購入することができたという。その頃、「松岡町内の本屋にはCQ誌など置いていませんでした」と話す。