[京都市で生まれる]

1936年3月21日、加藤勉さんは京都市で4人兄弟の末っ子として生まれた。父親は大手出版社に勤務する編集者であった。1942年4月、地元の紫明小学校に入学。前年1941年末より日本は太平洋戦争に突入おり、終戦は加藤さんが小学4年の時であった。

京都市は他の大都市と比べて空襲が少なかったこともあり、加藤さんは戦時中に疎開をしなかった。なお、京都市へ空襲が少なかった理由は諸説あるが、米国は、新たに開発した原子爆弾の破壊力が未知数であったため、投下した際にできるだけ詳しいデータを取りたかった。そのため、投下予定都市の1つであった京都市に対しては、空襲を控えていたという説が有力である。

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小学生時代の加藤さん(写真中央、センターファスナー付きの上着着用)

[ラジオを自作]

小さな頃から科学が好きだったという加藤さんは、小学5年生の時、初歩のラジオ誌に掲載されていた製作記事を参考に、鉱石ラジオを作った。スパイダーコイルのタップの位置を変更して、S/Nの最良点を見つけたことを憶えている。また方鉛鉱とウィスカー(猫のひげ)が接触する条件が、受信感度に大きな影響を及ぼすことを知ったと言う。アンテナには電灯線(いわゆる電灯線アンテナ)を利用し、問題なく受信はできた。

しかし、加藤さんは、「こんな長いアンテナをつければラジオが鳴るのはあたりまえ、これではおもしろくない」と、その鉱石ラジオに短いワイヤーアンテナをつけて、外に持ち出した。アンテナが短かったため、なかなかラジオは鳴らず、京都市内をウロウロしていたところ、ついにかすかな信号を捕らえた。その時、ひょいっと後ろ振り返ったところ、放送局の大きなアンテナを目にした。そこはなんと電波の発信源であったNHK京都放送局であった。そこが将来、加藤さんの就職先になるとは、当時は夢にも思わなかったと言う。

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T型アンテナが残る現在のNHK京都放送局

小学6年になった加藤さんは、再生式の受信機を作った。再生式とは、高周波信号の一部を出力側から入力側に戻す方式のことで、簡単な回路で高い増幅度が得られるメリットがある。しかし、再生の帰還量が強すぎると発振してしまうというデメリットもあり、発振する直前のポイントで最大の感度が得られるため調整にはコツがあった。

[短波受信機を作る]

その次は、CWを受信するため、0-V-1式でBFO付きの短波受信機を作った。この受信機で加藤さんはアマチュアバンドを見つけ、初めてアマチュア無線の信号を受信できた。しかし1947年当時は、まだ日本ではアマチュア無線が再開されていなかったため、日本のアマチュア局を受信することはできず、もっぱら英語やロシア語で行われていた海外局のモールス通信を聞いた。もっとも日本でもプロの通信は行われていたため、漁船などに向かって和文電信で送信されていた新聞電報は聞くことができたと言う。

12才になり地元の加茂川中学校に入学した加藤さんは、自作の短波受信機で、ますますSWL(Short Wave Listener)活動に励んだ。戦前から昭和40年代頃までは、アマチュア無線を始める前にまずSWLを始め、十分に経験を積んでから国家試験に臨むという流れが主流であった。加藤さんもそれに従ったわけではあるが、当時はまだ国家試験そのものが行われていなかったため、SWLの経験を積むにはちょうど良かった。来る日も来る日もSWL活動に明け暮れた。

加藤さんは、「アマチュア無線の免許を取る前に、SWLをすることで、開局後にすんなりと始めることができるし、その方が趣味としてのアマチュア無線が長続きする。だから今の人も、ぜひ免許取得前にSWLをやって欲しい」と語る。

[2アマを受験]

加茂川中学校を卒業し、紫野高等学校に入学した加藤さんであったが、その頃、ようやく日本でも電波法が整備され、1951年6月に戦後初めてになる第一回アマチュア無線技士国家試験が全国で開催された。この時の試験は全国で第一級を119名が受験し47名が合格、第二級を197名が受験し59名が合格したという記録がある。

高校時代、すでにCQ誌を愛読していた加藤さんは、国家試験が再開された記事を読み、いよいよ自らの受験に向けて勉強を始めた。CQ誌に掲載された既出問題を参考にした他、当時はすでに簡単な問題集も出ていたため、それも使ったと言う。

1953年、17才になった加藤さんは満を持して、第2級アマチュア無線技士(2アマ)の国家試験に臨んだ。試験は大阪市内の会場で受験したが、京都市の自宅から大阪市まで「自転車に乗って受験に向かった」と言う。1次試験の無線実験、2次試験の電波法規とも難なくパスし、1度で合格を果たした。その結果、1953年9月4日付で、2アマの無線従事者免許証を手にした。

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2アマの無線従事者免許証。当時は有効期間が5年間であった。