JA6FOF 郡山 勝視氏
No.6 アマチュア無線を再開
[無線局免許の更新]
郡山さんは、1981年の運用を最後に1994年までの13年間、長いQRT時期に入った。それでも5年毎の無線局免許の更新は1度も忘れたことは無く、長期間の乗船中でも、更新時期を常に気にかけていた。郡山さんの免許のちょうど5ヶ月後には洋子夫人の免許の更新時期が来るため、洋子夫人の局免許についても、一度も切らすことはなかった。加えて、QRT期間中もJARLの会費も一度も切らすことはなく、今でこそ自動引き落としを利用しているが、当時は年払いの会費を毎年支払い続けたという。リタイア後に再開しようという目的があったからである。
ただし、JARLの会費については途中で家族会員という制度ができた。機関誌であるJARLニュースが1家に2冊届いてもほとんど意味がないため、その時から洋子夫人は家族会員になった。しかし、家族会員では、QSLカードの転送サービスは受けられても、選挙の投票権はないし、JARL総会に出席しても会員席には座れずに傍聴席に回される。さらには永年表彰もない。「今考えると失敗したなあと思っています」と郡山さんは話す。
アマチュア無線をQRTしても、仕事では毎日電鍵をたたいていたため、電信の腕が落ちることはなかった。しかし、入社した頃は無線通信だけが業務であったが、人員削減で人が減り、事務長が乗船しなくなって事務をやらざるを得なくなり、労務管理も担当した。さらに医師や看護士の乗船も廃止されたため、船舶衛生管理者の国家資格を取得して、看護士の代わりまでしたという。「色々とやらされました。一人で何役もやりましたよ」と郡山さんは話す。さらに通信士もいつしか3人が2人になり、最後には1人になった。1人になれば、毎日8時間しか受信できないことになり、ワッチしていない時間が多くなった。電報の受信は、船舶から応答があるまで海岸局が毎回呼び出してくれるので、即時には受け取れなかったが大きな問題はなかった。
勤務中の郡山さん。
「その頃の楽しみは、海外でのちょっとした観光でした」と話す。多くの国では船員手帳がパスポートの代わりになる。入港した時に手続きを行えば、その後はあまり見られることはなかった。この船員手帳で、入港した国の観光ができたが、完全なパスポートではないため、行動範囲に制限がある場合がほとんどであったという。日本で言うと、東京に入港した場合は、関東周辺の観光はできるが、関西方面まで足を伸ばすことはダメという具合である。今ではそうでもないらしいが、中国では街に出て行くにも厳重な兵隊のチェックがあるなど警備が特に厳しかったことを覚えている。
[55歳で定年退職]
1992年、55歳になった郡山さんは、ナビックスライン(株)を定年退職する。ちなみに船員の定年は55歳である。その頃には電信による通信はもう主力ではなく、衛星通信によるテレックスがほとんどで、FAXや電話もあった。ただし電話代はまだまだ高かったため、テレックスを使うことが多かった。テレックスを導入した当初はうまく働かないこともあったが、次第に精度が高くなっていったという。
定年を迎える頃には電信ではニュージーランドや台湾と少しだけ通信を行っていた程度で、電信はほとんど無くなっていた。「電話は特殊技能が必要なく、機械さえ操作できれば誰で通信できるので、トンツーが無くなっておもしろくなくなったのに加え、外国人の船員が乗り込むようになって、いよいよおもしろくなくなったので、ちょうど良い機会と思い定年で辞めました」と郡山さんは話す。ちなみに、郡山さんは最後まで電信の通信には縦ぶれ電鍵を使った。その頃にはエレキーを使っている若い通信士もいたという。
[水道会社に再就職]
こうして郡山さんは1992年に定年退職したが、すぐにアマチュア無線を再開することはなかった。55歳と言えばまだまだ働き盛りである。退職後は諫早市にある職業訓練校の配管科に通い訓練を受けた。まずは配管技能士の2級を取得。さらにユンボを操作する資格も取り、溶接の技能も習得して1年間の訓練を修了した。その職業訓練校には中国残留孤児の夫と一緒に通った。この中国人は日本語が不自由なため、人から頼まれたのであった。
訓練修了後も、その中国人と同じ水道会社に就職した。正確には中国人が日本語を話せないので、同じところに就職せざるを得なかった。郡山さんは1年間その水道会社に勤務し退職したが、ちょうどその頃、知り合いの水道屋が独立することになり、「手伝ってくれんか」と頼まれ、3〜4年また水道会社に勤務することになった。
[アマチュア無線を再開する]
水道会社に勤務していた1994年、かつてJA6FOFを開局したときに尋ねてきた先輩局であるJA6DVP中原さんが、たまたま仕事の関係で郡山さんの家にやって来た。その際、「また無線をやってみないか」と誘われたのがきっかけとなり、郡山さんはアマチュア無線を再開することになる。「今、流行っているから2mをやってみたら」と中原さんからアドバイスされ、郡山さんは144/430MHzの2バンドハンディ機を購入した。
機器追加の変更申請も済ませて、144MHzと430MHzの免許が下りると、当初は、自宅内のこたつの上で、ハンディ機単体に付属のホイップアンテナで主に144MHzで運用した。しかし付属のホイップではあまりにも飛ばないので、すぐに庭先にグランドプレーンアンテナを設置した。その後は休みの度に、ハンディ機を持って洋子夫人と山に登って移動運用を楽しむ様になった。
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九州のあちこちに車で向かい、阿蘇山、久住山、韓国岳、天山、多良岳、鶴見岳、英彦山などに登ったという。運用はほとんど144MHzで、どちらかというと、郡山さんより洋子夫人が運用する時間の方が多かったという。この頃はまだ現役で配管の仕事をしていたため、週末の移動運用が中心であったが、V/UHF帯では交信範囲も限られ、同じ局とつながることが多くなってくる。そうこうするうちに、「HFがやりたい」と思うようになっていった。