JA3EY 永井 弘一氏
No.1 神戸で生まれる
[国民学校]
1935年(昭和10年)2月1日、永井弘一さんは2人兄弟の長男として、神戸市灘区で生まれた。1941年4月、6才になった永井さんは地元の福住国民学校に入学した。同年に制定された国民学校令によって、従来の尋常小学校は国民学校初等科となり、永井さんの年代が、初めて国民学校の1年生として入学することになったのであった。
その後、1944年になると太平洋戦争の形勢が悪化したため、永井さん一家は兵庫県北部の城崎郡日高町(現豊岡市)に疎開することになる。永井さんは、4年生になると同時に、豊岡市の日高国民学校に転校し、5年生の時に終戦を迎えた。永井さん一家は終戦後もそのまま豊岡に残り、永井さんは1947年3月に日高国民学校を卒業する。同年3月31日には学校教育法が施行され、国民学校初等科は新制の小学校になったため、永井さんの年代が、国民学校を卒業した最後の年代となった。
すなわち、国民学校は1941年4月から1947年3月の間、ちょうど6年間しか存在しなかった。そのため、国民学校初等科に1年生として入学して、国民学校初等科を卒業したのは、1934年4月から1935年3月の間に生まれた、永井さんの年代だけだったということになる。
[ラジオを作る]
永井さんは、1947年4月、新制中学校となった日高町立(現豊岡市立)日高中学校に入学した。教育基本法により、中学3年間は義務教育となったが、制度が変わったばかりのため、入学当初は教科書が間に合わず、進駐軍が用意した英語の教科書しか無かったという。その頃、永井さんは父親にテスターを買ってもらい、初めてラジオを作った。永井さんの父親は、単身赴任で神戸市にあった神戸製鋼に勤務していた。
永井さんは、日高中学校を卒業後、1950年4月に兵庫県立豊岡高等学校に入学する。すでに終戦から5年近くが経過していたが、永井さん一家は永井さんが高校を卒業する1953年まで、豊岡に留まった。高校では放送部に所属し、電気に興味を持っていた永井さんは、放送用のアンプを直したりしていたという。この放送部で、将来JA3IKを開局する斎藤さんと知り合った。
JA3IK斎藤さん。
その頃、永井さんと斎藤さんは、雑誌の記事を参考にして、ワイヤレスマイクを作った。周波数は、1600kHz付近で放送していたNHK豊岡の少し上くらいになるように設計して完成させた。双方の自宅間の距離は約4kmあったが、ワイヤレスマイクによる通信に成功したという。これが、永井さんが無線への興味を深めるきっかけとなった。
[アマチュア無線を知る]
1951年、高校2年生のある日、永井さんと斎藤さんは、豊岡市内の本屋で、たまたま手に取ったCQ誌を読みアマチュア無線の事を知った。「これはおもしろそうだ」と感じたことが、免許取得のきっかけとなった。同年6月、日本では戦後初めてのアマチュア無線技士国家試験が実施された。そして、永井さんが高校3年生になった翌1952年8月、ついに日本でもアマチュア無線が再開された。
永井さんと斎藤さんは、まだ免許を取得していなかったが、実際のアマチュア無線はどんなものか見たくて、一番近くのアマチュア無線局はどこにあるのか探した。当時は局の住所がすべて公表されていたため、2人で探したところ、一番近いアマチュア無線局は、朝来郡生野町(現朝来市)のJA3BA佐伯さんという事が分かり、電話を入れて見学をお願いした。佐伯さんは快諾し、永井さんと斎藤さんは、さっそく佐伯さんのお宅にお邪魔した。佐伯さんから色々と教えてもらい、2人はますますアマチュア無線への興味を深めていった。
話は変わるが、永井さんは豊岡に疎開した小学4年生の時からスキーを始め、豊岡高校時代は、放送部の他にスキー部にも所属していた。70才を超えた今でも、「もちろんストックなしでも滑られますよ」と話す。
[国家試験を受験]
1953年3月、永井さんが高校を卒業したのをきっかけに、永井さん一家は神戸に戻った。一方、永井さんは、同年4月に東京の武蔵工業大学に入学したため、神戸には一時だけの滞在となった。武蔵工大の同級生には、後にJA1VCを開局する竹森さんがいた。入学早々、無線の話で意気投合した永井さんと竹森さんとは、当時、郵政省本省に勤務していたJA1AY徳間さんのところにアマチュア無線の話を聞きに行き、徳間さんの薦めもあって、さっそく第2級アマチュア無線技士の国家試験を受けることになる。徳間さんは、若い2人に対して、いろいろとアドバイスしてくれたという。
国家試験は旧陸軍中野学校で行われた。永井さん、竹森さんの他にも、同級生で後にJA1UOを開局する久松さんも一緒に受験した。当時のアマチュア無線技士国家試験は今のように択一式ではなく、すべて記述式だった。永井さんは、「すべてを回答することはできませんでしたが、記述式なので部分点が取れたからよかったと思います」と話すように、一発で試験をパスした。
JA1UO久松さん。
武蔵工大の同級生には、高校生時代にすでに開局していたJA1DG今井さんがおり、永井さんらは今井さんからの情報を得て開局準備を進めていく。夏休みになった7月、神戸の実家に帰った永井さんは、大阪市にあった近畿電波監理局陸上課に出向いて開局申請を行うのだが、朝9時半くらいに到着して申請書を書き始め、15時半くらいまでかかって書き上げたという。指導にあたってくれた事務官の田中さんは、つきっきりで対応してくれ、個人的に昼飯までごちそうしてくれたことを永井さんは覚えている。
JA1DG今井さん。
当時の申請書は、和紙に縦書きで旧書体の難しい漢字を使って記載しなければならなかった。さらに文字を訂正する際は、欄外に○字訂正と書いて印を押さなければならず、大変だった。また、書類は袋とじにする必要があり、なにしろ時間がかかった。当時、近畿電波監理局の別の課に勤務していたJA3AA島さんが、休み時間に様子を見に来てくれたという。