JA3EY 永井 弘一氏
No.2 JA3EYを開局する
[落成検査に合格]
ほぼ丸1日がかりとなったが、無事に開局申請を終えた永井さんは、予備免許が下りるとすぐに送信機の制作を開始した。終段には807を使い、ハイシング変調のAM送信機を完成させた。この送信機はコイルの差し替えで、3.5MHzと7MHzに対応できるように設計し、出力は10W程度であった。受信機には旧日本軍払い下げの地三号受信機を使用した。
1953年8月に落成検査となり、技官、事務官、運転手の3名が、測定器を積んで、大阪からライトバンに乗ってやってきた。検査の結果は合格。免許状は後から郵便で送ってきたという。免許を手にした永井さんは、さっそくオンエアを始めたが、学校が東京で、無線局は神戸のため、主に冬休みや春休みといった長期休みの時に、実家に帰って運用を行った。
開局当時の永井さん。
当時は、まだアマチュア局の移動運用が認められていない時代だったので、JA3EYの免許で関東から運用することはできなかった。そのため、永井さんは関東でも開局申請を行い、神奈川県秦野市に住んでいた同級生のJA1DG今井さんの所に間借りして、JA1TWを開局した。「今井さんの自宅は丹沢の麓にあり、よく泊めてもらいました」、それでも間借りであったため、「JA1TWではあまり運用しませんでした」と話す。その頃永井さんは、母親の兄の同級生で、戦前から水戸市でアマチュア無線をやっている局(J2XA)がおり、紹介してもらってシャックを見せてもらいに行った。戦後はJA1RXのコールで再開していた高崎さんであった。
[城南クラブに所属]
武蔵工大の学生時代、永井さんは城南クラブに所属した。城南クラブは、関東を代表するアマチュア無線クラブの一つで、当時の会長は、JARLの会長(理事長)でもあったJA1FG梶井さんが務め、メンバーとしてJA1AE(JA1KM)福士さん、JA1AT小川さん、JA1GY浅井さん、春日無線(現ケンウッド)の創業者JA1KJ春日さん、JA1KS栗山さん、八重洲無線(現バーテックススタンダード)の創業者JA1MP長谷川さんなどが所属していた。毎月、「やぶじゅう」という蕎麦屋の2階でミーティングがあり、「同じ城南クラブ員だったJA1VC竹森さんといつも一緒に出席しました」、「またクラブ員ではなかったが、JA1AH小宮さんや弟のJA1KC小宮さんもよく来てましたよ」と永井さんは話す。
JA1VC(esJA7CR)竹森さん。
この頃の永井さんは、同級生だった竹森さんと行動することが多かったが、当時、神田にあった誠文堂新光社(「無線と実験」誌を出版)の向かいにあり、「CQハムラジオ」誌を発行していたCQ出版社を2人で訪ねたことを覚えている。「CQハムラジオ誌」は当初JARLの機関誌として1946年9月に創刊され、1948年6月からCQ出版社による発行となっていた。この竹森さんは、1970年代始め頃から「タマエレクトロニクス」というアマチュア無線関連製品の輸入販売会社を経営していたので、ご存じの方も多いと思う。
[神戸に帰る]
武蔵工大に2年間在籍した後、永井さんは、事情があって神戸の実家に帰ることになった。そして、実家から通える関西大学に入学し直した。当時の関西大学には、JA3LV松井さんや、JA3CB宮辻さんが在籍しており、学内のみならず、JARL関西のミーティングなどでも交流を深めたという。
1954年9月に行われたJARL関西のミーティングのスナップ。前列左から3人目が永井さん。
当時、神戸市東灘区のローカルでは、短波実験局の頃から運用していたJA3AE竹井さん(exJ3ES)、JA3AS(exJ3CU)魚谷さん、JA3BB(exJ3FI)岡谷さん、そしてJA3AI田地さん等が活躍していた。JA3AS魚谷さんは阪神クラブの会長として活躍。JA3AI田地さんは、海上保安庁の士官で、永井さんは、「一度、巡視船に乗せてもらい、士官食堂でごちそうしてもらった事もありました」と話す。「しかし、田地さんは若くして独身で亡くなったんです」と永井さんは残念がる。
JA3BB岡谷さんは、14MHzでのDX QSOを好んで運用しており、ARRLコンテストの時など、「高調波が入ると困るので、コンテスト中は7MHzを運用しないで欲しい」と、永井さんに葉書まで送ってくるほどの熱の入れようであった。岡谷さんは、当時すでに8JKアンテナというビームアンテナを使用しており、家の中から、機械的にギヤを回して、アンテナマストを回転させ、ビームアンテナを回していたという。
[定期検査]
神戸での永井さんは、807シングルの10Wで運用していたが、次第に物足りなくなり、ファイナルに813を使った送信機を完成させた。この送信機は200W近く出たため、オンエアで、「200Wぐらい出るで」、と話してしまったこともあった。当時は、現在の神戸市西区に近畿電波監理局の岩岡監視所があって、アマチュア無線の通信もよく傍受していたため、永井さんの会話も筒抜けになっていたようだ。
当時のアマチュア無線局には、プロの無線局と同様に定期検査があり、永井さんの局JA3EYもこの定期検査を受けることになった。永井さんは、普段自宅2階のシャックで運用していたが、定期検査の日は、1階に落成検査をパスした10W機を置き、アンテナを接続して検査に臨んだ。一通りの検査を終えた検査官は、永井さんに「送信機はこれだけではないでしょう。別の送信機を見せてください」と告げた。
検査官は、監視所から回ってきた情報によって永井さんが813の送信機を使っていることを知っていたのであった。永井さんは観念して2階に案内し、813の送信機を検査官に見せた。高圧部分がむき出しになった送信機を見て、検査官は「お宅に小さいお子さんはいないでしょうね」と、まずは子供の感電の心配をしたという。そして、「免許の10倍も出してたら違反や。とにかく周波数測定装置を入手して、100Wの変更検査を受けなさい。」とアドバイスをしてくれたという。
当時の2アマ(旧2級)局の最大電力は100Wであったが、10Wを超える局の場合は、周波数測定装置の設置が義務づけられていたため、周波数測定装置なしでは、変更検査を受けることができなかった。永井さんは、BC-221という型番の米軍払い下げの周波数測定装置を入手して、変更検査を受け、無事に100W免許を得た。「あの頃の電監は本当に親切でした」と話す。
1955年2月からは、アマチュア局も移動運用が可能になった。永井さんらはヨットに無線機を積んで海上移動運用実験も行った。左からJA3LV松井さん、JA3NW塚本さん、永井さん。