[100W運用]

変更検査に合格して100W免許を得た永井さんは、7MHzのAMを主に運用したが、10W時代と比べると格段に飛ぶようになった。アンテナには竹竿を利用したダイポールアンテナを使用したが、当初は同軸ケーブルが手に入らなかったため、50芯のビニール線で給電した。CQを出すと、よく米国の局から呼ばれたという。最近まで、日本と米国では、電話で運用できる周波数帯が一致していなかったため、米国の局との電話での交信は、スプリット運用(送信と受信を異なる周波数に設定する運用方法)を余儀なくされた。そのためCQを出した後は、受信機のダイヤルを上の方までくるくると回して、米国から呼んでくる局がいないか捜した。

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W6AMのQSLカード。これは1956年3月10日に、7MHz Phone(AM)でQSOしたもの。

当時、永井さんがよく交信した局は、カリフォルニアのW6AMやハワイのKH6IJであった。時には、パナマなどから呼ばれることもあったという。一方、隣国である韓国には、当時まだアマチュア無線の免許が下りていなかったため、交信できなかったが、そんな中、いきなりソウル大学工学部の学生であったHL1TAが出てきて、日本の局は騒然となった。永井さんももちろん交信することができた。その後は徐々に免許が下りるようになり、HM2AQらがアクティブに出てきたため、「韓国とはよく繋がりました」と話す。

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HL1TAのQSLカード。これは1954年5月30日に、7MHz Phone(AM)でQSOしたもの。

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HL1TAのQSLカードの裏面。日本語でびっしりとメッセージが書かれている。

当時の7MHzには、「JA1EF樋口さんや、JA1AEA鈴木さん、JA1AGU堀さんがよく出ていたことを覚えています」と永井さんは話す。また、当時は日本人による海外からの運用は珍しかったが、フィリピンからDU1GFとしてオンエアしていた佐賀県出身の石橋さんともよく繋がっている。7MHzの他には、3.5MHzも開局当時から時々オンエアしていた。3.5Mは逆Lタイプのロングワイヤーアンテナを使っていた。

[周波数離脱]

永井さんは、監視局から一度もオーバーパワーの警告はもらったことがないが、よく周波数離脱の警告書が届いたり、時には電話までかかって注意を受けたりしたという。当時の7MHzはまだバンドとしての割り当てではなく、スポット周波数の割り当てであった。そのうち、電話には7050kHzと7087.5kHzの2波しか割り当てがなく、この2波を全国のハムが使用するので、常に混信していた。そのため、永井さんは、「水晶片を少し削って、わざと周波数を逸脱させていたのですよ」と笑って話す。

1954年12月、ようやく7MHzはバンドで許可になり、7.000〜7.100MHzの100kHz幅が割り当てられた。バンドプランに従えば、VFOを使ってどこででも出られるようになったが、永井さんはしばらくの間、送信は水晶発振子による固定周波数でオンエアした。理由は、「電源事情が良好でなかったため、VFOにすると、交信中に周波数が動いてしまうからだった」と説明する。

受信機に関しては、開局当初は旧日本軍払い下げの地三号受信機を使用し、その後米軍払い下げで、高周波増幅2段、中間周波増幅3段のシングルスーパーの受信機BC-312を手に入れて取り替えた。「BC-312は、真空管とIFT(中間周波数トランス)を取り替えるなど、少し改造して使いました」と話す。

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BC-312を使っていた頃の永井さん。

関大生時代の4年間、永井さんは、電波を発射して運用するだけでなく、各地で開会されていたアマチュア無線のミーティングに出かけては、色々なハムと出会い、様々な情報を得ていった。その頃、和歌山で知り合ったミニマルチアンテナのJA3LZ城野さんとは、いまでもアンテナに関する情報交換を行っているという。

[神鋼商事に就職する]

1959年3月、関西大学を卒業した永井さんは、神鋼商事株式会社に入社する。神鋼商事は、神戸製鋼グループの商社として、1946年11月、神戸製鋼の大阪事務所跡に設立された。鉄鋼や非鉄金属、各種機械、それに溶接材料などを取り扱っており、永井さんは、溶接材料を扱う部門に配属された。会社は永井さんが入社後すぐに株式を2部上場、その後は1部上場会社となり、今に至っている。

[移行のチャンスを逃す]

1958年、電波法の改正で、電話級、電信級の各アマチュア無線技士が誕生すると、アマチュア無線技士の資格は、第1級、第2級と合わせて4段階となり、(新)第2級アマチュア無線技士にはモールス符号による電気通信術が課せられた。そのため、電気通信術試験なしで取得できた旧2アマは、電話級アマチュア無線技士相当に格下げになったが、5年間の移行期間が設定され、その間に電気通信術の試験に合格することで、新2アマになることができた。

しかし、就職したばかりの永井さんにとっては、仕事を覚えることが優先で、当然のごとく試験勉強している暇はなかった。さらに、当時の商社マンは麻雀と酒のつきあいが必須で、あっという間に5年間の移行期間が経過し、永井さんは、移行試験を受験する機を逸してしまった。この頃の永井さんは無線のアクティビティも極端に下がっていた。

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永井さんと、JA3FM鹿島さん。

当時の商社マンはハイボール(ウイスキーのソーダ割り)を10杯は飲まないと一人前とは認められなかったらしいが、アルコールに強くない永井さんにとっては2杯が限界で、酒のつきあいは大変だったという。それに加え、連日麻雀を打たねばならず、「毎月、家に持って帰れる給料は、支給額の半分くらいになっていました」、と笑って話す。それでも自宅から通勤していた永井さんには、あまり堪えなかった。徐々に少し仕事に慣れてくると、今度はゴルフのつきあいが始まり、ますます無線どころでは無くなっていった。