JA3EY 永井 弘一氏
No.4 21MHzを中心に運用
[阪神クラブに所属]
東京から神戸の自宅に帰ってきた永井さんは、阪神クラブに所属した。この阪神クラブは、関西のアマチュア無線クラブの中でも、もっとも歴史のあるクラブの1つで、社団局のコールサインは関西では1番目にあたるJA3YAAが割り当てられている。また、JARL登録クラブとしても、兵庫県で1番目の登録(登録番号27-1-1)である。
阪神クラブは、大阪と神戸の間に位置する、尼崎市、伊丹市、川西市、宝塚市、西宮市、芦屋市、神戸市(東部)の地域のアマチュア局が集まって設立されたクラブで、会長はクラブ設立時からJA3AS魚谷さんが務めた。永井さんは、章典係を担当した。具体的な仕事は、阪神クラブが発行するアワード「阪神クラブ賞」の事務処理である。設立当初の阪神クラブでは、いつも西宮市の労働会館でミーティングを行っており、永井さんも毎回出席していた。
阪神クラブ賞は、現在でも引き続き発行されており、ルールは昔と変わっておらず、阪神7市(尼崎市、伊丹市、川西市、宝塚市、西宮市、芦屋市、神戸市。ただし神戸市は灘区、東灘区に限る)に所在するアマチュア無線局と交信して、4市を含む10局以上(10局共、阪神7市に所在する局であること)のQSLカ-ドの取得により発行される。この阪神7市で運用するアマチュア無線局は昔から多く、従って、条件をクリアする難易度は高くないため、阪神クラブ賞は、比較的入門アワードであると言える。
永井さんがハンドルしていた頃の阪神クラブ賞。
現在の阪神クラブ賞。新しいデザインに変わっている。
[移行試験の受験チャンスを逃す]
1958年、電波法の一部が改正され、電話級(現第四級)アマチュア無線技士、電信級(現第三級)アマチュア無線技士の資格が新設された。これに伴って、それまで有効期限があった無線従事者免許が終身免許になった。それと同時に、新第二級アマチュア無線技士には電気通信術試験が課せられるようになったため、電気通信術試験の無かった従来の第二級アマチュア無線技士は、電話級アマチュア無線技士に格下げとなってしまった。
それでも、5年間の移行期間が設定され、その間に電気通信術の試験に合格することで、学科も含めて一から受験し直さなくても、新第二級アマチュア無線技士に移行できることに決まったため、多くの旧第二級アマチュア無線技士が移行試験を受験した。永井さんは、1959年4月に大学を卒業し、神鋼商事に就職したたばかりで、仕事を覚えることが精一杯で、この頃は無線どころではなかった。
1962年、永井さんは結婚して西宮市に新居を構えた。その後、1963年には長男、1966年には長女が誕生し忙しく過ごしているうちに、あっという間に移行期間の5年間が過ぎ去ってしまった。1963年10月に最後の移行試験が実施されたという記録があるが、そのような状況の中、永井さんは移行のチャンスを逃してしまった。「モールス符号は覚えていましたが、当時は麻雀ばかりやっていました。」と永井さんは笑いながら話す。
[モービル運用]
永井さんは、アマチュア無線の運用は、基本的に自宅から行ったため、ほとんど移動運用は行わなかった。しかし、何回かは車に積んだ機械で運用したこともあったという。子供が小さかったとき、50MHzのFMトランシーバーを車に積み、60MHzのタクシー無線用のアンテナを50MHzに改造して、家族で芦原温泉に行ったことがあった。そのときは、たまたま道中で交信した地元の局に、(子供からリクエストのあった)プール付きの旅館を紹介してもらい、値引き交渉までしてもらったことを覚えている。
ファイナルには829Bのアンプをつけたが、エンジンを切ったらバッテリーが上がってしまうかもという心配があり、その後も自らは、頻繁にモービル運用は行わなかった。その頃、永井さんの友人であるJA3RF桑垣さんは、熱心にモービル運用を行っていた。桑垣さんは日本におけるモービル運用のパイオニアであり、永井さんは桑垣さんの車に乗せてもらっては、実運用をよく見せてもらった。
[21MHzを中心に運用]
仕事もひととおり落ち着くと、永井さんは、21MHzを中心に運用を再開した。アンテナは、タニグチエンジニアリングトレーダース製のHB9CV(位相差給電の2エレアンテナ)を購入し、それに自作のディレクターを追加して3エレに改造した。28MHzも同じように、タニグチのHB9CVに自作のディレクターを追加して3エレに改造したという。この2バンドを運用したが、どちらかというと21MHzの方に力を入れた。
西宮で運用していた時代の永井さんのQSLカード。
これらのアンテナは自宅に建柱したタワーに載せた。このタワーは、全長10mのトラスタイプのタワーの中に、全長10m、直径75mmの鉄パイプを入れ、そのパイプをモーターで引き上げて、全長18mのクランクアップタワーに改造したものであった。アンテナを回すローテーターはタワーのトップに載せて、アンテナに直結したという。
[呉に転勤になる]
1974年、永井さんは広島県呉市に転勤になる。呉市というと、瀬戸内海に面した港町で、一般的には北側が山、南側が海というロケーションになるが、永井さんが入居した社宅は南側に山を背負った場所にあり、南側にはほとんど飛ばなかったが、北方面は比較的良好だったため、この頃は主に北米やヨーロッパとの交信を楽しんだ。
アンテナには、西宮の自宅で使って好感触だったタニグチの製品を使用した。それは「スイスクワッド」と言われる位相差給電のHB9CVをクワッドにしたもので、サイズは通常のHB9CVに比べると大型化したが、その分、良く飛んだ。永井さんは1階建ての社宅の屋上にルーフタワーを設置し、それに21MHz用のスイスクワッドを乗せ、しばらくの間は21MHzオンリーで運用を行った。この頃の思い出として、珍局であったイエメンアラブ共和国(4W)とQSOしたことを覚えている。
1974年10月にQSOした4W1EDのQSLカード。
後日、7MHzと3.5MHzの2バンドに対応したバーチカルアンテナ・CV48を設置し、3.5MHzの運用を試みたが、こちらは期待に反して、全然飛ばなかった。原因はアースが効いていなかったようだ。バーチカルアンテナの飛びは、アースに依存する部分が多く、同じアンテナでも、アースの善し悪しによって驚くほど違いが出る。社宅では満足のいくアースの確保が難しかったため、以後、3.5MHzの運用は取りやめた。ちなみに呉時代の1975年、永井さんはDXCCを申請し、DXCCメンバーとなっている。