JA3EY 永井 弘一氏
No.5 神戸勤務に戻る
[神戸勤務に戻る]
呉では4年間勤務し、1978年、永井さんは神戸に転勤となった。再び西宮の自宅から通勤できるようになったため、自宅からの運用を再開した。仕事にも変化があり、呉から神戸に転勤になった後は、海外との商売を担当するようになった。そのため、海外に出張に行く機会が増えた。
海外出張での一番の思い出は、西オーストラリア(VK6)に出張に行く際、事前に交信したことのある現地局とアイボールQSOの約束をした。現地では20時に待ち合わせを行ったところ、時間になってもその局は現れず、結局永井さんは1時間も待たされた。21時になってようやくその局が現れ、「時間に不正確な男やな」と思った。
話を聞くと、自動車のダイナモが故障し、エンジンがかからずに修理していたとのことだった。その局の職業は銀行員なので、技術屋ではないが、「銀行員なのに車の修理までしてしまうとはすごいヤツだ」と感じたという。オーストラリアでは、50才から年金がもらえるため、税金が高く、そのため、現役時代は、共稼ぎでないとやっていけないとの事だった。
神戸勤務となってさらに4年が経過した1982年、永井さんは大阪本社に転勤になるが、自宅からの通勤方向が西から東に変わっただけで、大勢には影響はなかった。その頃は仕事が特に忙しく、終電が無くなった後にタクシーで帰宅する様なこともしばしばあったという。
[芦屋に転居]
1988年、永井さんは、芦屋市に転居する。アマチュア無線を行うためのロケーションがよく、また通勤にも不便でない場所を探していたところ、芦屋市の郊外、六甲山系の標高約500mにある分譲地に、絶好の条件の売り物件を見つけた。山の中の分譲地で、工業施設などは皆無のため、空気もきれいで環境は抜群に良い。売り物件は東南の角地で日当たりも言うことはない。もちろん標高が高いため電波の飛びが期待できる。さらに敷地内に電線が通っていないためアンテナを設置するにも問題はない。というものだった。
永井さんが転居した芦屋ハイランド。
しかし、永井さん本人にとっては絶好の条件でも、家族が生活を行うのには必ずしも絶好というわけではなかった。芦屋市の市街地や駅まで行くのに車で15分前後かかる。分譲地内に商業施設もないため、何をするにも車かバスで山を下りる必要があった。また雪が積もればバスも来ないという環境であった。そのため、永井さんは、家族4人で多数決をとった。「その結果3対1で、転居が決まりました」、と話す。
[タクシー]
西宮の自宅を引き払って、芦屋の高台に転居しても、神戸にはまだ永井さんの両親の住む実家があるから、いざとなったら、そこを使えばよいということも決め手の一つとなり、永井さん一家は1988年に芦屋市に転居した。その頃も永井さんはしばしばタクシーで帰宅していたが、冬になると路面に雪が積もるため、大阪で乗車する夏タイヤを履いたタクシーでは、自宅まで帰れないことがあった。
そのため、永井さんは、路面に積雪がある日は、先に会社から阪神タクシーの芦屋営業所に電話を入れ、スタッドレスタイヤを履いたタクシーを確保しておいてもらい、まずは大阪の職場からは夏タイヤのタクシーに乗車して芦屋に向かい、芦屋で阪神タクシーに乗り換えて、自宅まで帰ったという。
[瀬戸内海国立公園内]
永井さんが転居した芦屋の住所は、瀬戸内海国立公園内にあり、さらに第一種風致地区に指定されているため建築物に制限があった。アンテナタワーには、地上高13m以下という条件があり、それ以上の鉄塔の建柱はできなかったが、永井さんはその条件も承知の上で分譲地を購入したため、はじめから条件の範囲内でアンテナをやりくりする計画であった。
瀬戸内海国立公園は、昭和9年に雲仙や霧島とともに、我が国で最初に国立公園として指定された。紀淡、鳴門、関門、豊予の四つの海峡に区切られた面積の広い海域が公園区域として指定されており、陸域・海域を含めると日本一広大な国立公園となっている。その東端が兵庫県の六甲山、摩耶山を中心とした六甲地区で、その中に永井さんの自宅がある。
転居後、永井さんはさっそく工作物建築確認申請のために芦屋市役所を訪ねたところ、担当の課長から開口一番、クランクアップタワーを勧められ、「アマチュア無線に関してやけに詳しい担当の方だなあ」と、びっくりしたことを覚えている。しかし永井さんの自宅周辺は風が相当強いため、クランクアップタワーより強度的に有利な自立型タワーの建築確認申請を行い、13mのタワーを建柱した。
転居後に初めて設置した自作のアンテナ。21MHz用4エレHB9CVと28MHz用3エレHB9CVを1本のブームに配列した。
[リタイヤ]
1990年、永井さんは31年間務めた神鋼商事株式会社を退職し、関連会社の神鋼興産株式会社(現 神鋼不動産株式会社)に就職した。この神鋼興産株式会社は、神戸にある神鋼ビルに本社を置き、不動産、ビル管理やリフォーム、保険などを手がける神戸製鋼グループの中堅会社である。この会社で永井さんは、主に神鋼グループの社員に向けた車の販売や、ガソリンカードを担当し、リタイヤするまで在籍した。
1998年、永井さんはリタイヤすると比較的自由な時間が確保できるため、アマチュア無線の実運用はもちろん、現役時代にはあまり行えなかった各種アンテナの実験、さらには40年以上におよぶ運用で集まったQSLカードの整理や、各種アワードの申請を始めた。これらアンテナの実験や、アワードハンティングについては、別の回に紹介する。