[地震発生]

1995年1月17日午前5時46分、淡路島北部沖の明石海峡を震源とするマグニチュード7.3の大地震が発生した。この地震の正式名称は「兵庫県南部地震」であるが、災害名としての「阪神・淡路大震災」の方が一般的である。震度7が適用されたこの地震は、兵庫県南東部と大阪府北部を中心に大きな被害をもたらし、死者は6,000人以上、負傷者は40,000人以上に及んだ。特に神戸市の市街地は壊滅状態に陥った。

この日、まだ現役であった永井さんは、出勤の準備をしていた。そこにドーンときた。永井さんの芦屋の自宅は倒壊等の甚大な被害こそ無かったが、テレビが台から飛び出してきたり、水屋が倒れたりした。地震直後は停電したが、10分もすると電気が復旧したため、まずはテレビを台に戻して、永井さんはニュースを見た。しばらくすると、神戸では相当な被害状況であることが分かったため、神戸市東灘区の実家で暮らしている両親と、実家の隣に家を建てて住んでいる永井さんの長男一家の事が心配になった。

[実家に駆けつける]

神戸の実家、さらには長男の自宅に電話を入れるも不通であった。永井さんは現地に駆けつけるべく、6時過ぎに家を出た。実家への道すがら目に入る光景は、想像を絶するありさまだった。道路も所々でひび割れがあったが、いつもどおり30分ぐらいで東灘区の実家に到着した。すると実家は2階がつぶれて1階に重なり、2重の塔の様になっていた。あわてて両親を捜すと、隣の長男の家に避難していたことがわかった。

地震で倒壊した実家は、梁(はり)がしっかりしており、両親は1階で寝ていたが、その梁のおかげで助かった。一方、長男の家は2×4だったので倒壊を免れていた。回りの家も多くが倒壊しており、また、電気、ガス、水道のすべてが止まってしまったため、とにかくこれでは生活もできないと、まずは両親を永井さんの芦屋の家に連れて帰った。帰り道も特に渋滞にはなっておらず、地震当日だけすんなり帰れたという。その後長男一家も避難してきた。こうしてしばらくの間、3世代が永井さんの家に同居することになった。

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震災後に載せ替えたアンテナ。マルチバンド対応デルタループ。

[大渋滞]

翌日からが大変であった。両親から「衣類を取ってきてくれ」と頼まれ、永井さんは実家に向かったが、午前中に家を出て、帰宅できたのは夜の11時頃であった。永井さんは歩道まで走行したというが、こんな状況であった。これは、地震当日には走行できた一部の道路や橋が「危険」ということで通行禁止になったため、走行できるルートに制限がでたことと、各地から支援車両が入ってきたために、交通集中が起こったためであった。さらに信号も消えているので、交差点の通過が特に大変だった。午後のほとんどの時間を渋滞の中にいた永井さんは、のどが渇いて自動販売機で飲料を求めたが、動いている自動販売機にはもうお酒しか残っていなかった。

永井さんの芦屋の自宅では前述のように、電気はすぐに復旧し、水道も3日もしたら復旧した。水道は、浄水場の配電盤が飛んだだけであった。ガスは、住民が「臭い」と連絡したためしばらく止められた。そのため、1月だというのにガス暖房器が使えなくなってしまい、永井さんは電気で動くIHヒーターを買ってきて、ガスが復旧するまでの約1ヶ月間、このIHヒーターと、石油ストーブで対応した。

ただし、暖房はIHヒーターとストーブで対応できたが、ガスがストップしていた間、風呂を沸かすことができなかったため、永井さんらは、永井さんの車や永井さんの長男の車で「近所の芦屋カンツリー倶楽部や、大丸やクボタの研修センターの風呂を利用させてもらいに行きました」と話す。当時これらの企業は、自前のボイラーで風呂を沸かし、被災者に対して無償で浴場の使用を提供していた。

[不便を強いられる]

永井さんの住んでいる芦屋市の自宅は、六甲超えで芦屋と有馬温泉を結ぶ芦有道路の途中にある。震災後は、警視庁、各県警、消防の応援などが全国から参集し、有馬温泉を宿泊所にして、毎日、永井さんらの生活道路である芦有道路を使って芦屋市や神戸市に通ったため、道路は通行に制限がかかってしまった。そのため、永井さんらは山を下りて買い物に行くにも、不便になった。

芦屋市街は壊滅的な被害を受け、特に阪神電車より南側の地域はほとんどの家屋が倒壊していた。そのような状況の中、芦屋市内ではガソリンスタンドは1軒も営業していなかったが、東隣の西宮市はそうでもなく、通常営業しているところが多かった。そのため永井さんは、車両への給油や暖房用の灯油の買い出しのために西宮まで通った。行政の指導もあってガソリンの便乗値上げは行われていなかった。西宮では、レストランもオープンしており、芦屋とは雲泥の差であることを感じた。しかし、交通渋滞で灯油の買い出しだけで6時間もかかる状況だった。

「管轄外だし、権限が無いのだとは思いますが、大渋滞になっているのに自衛隊は全く交通整理をしてくれませんでした。彼等は、泥棒等の犯罪防止のためのパトロールだけを行っていたのですよ」と永井さんは少々不満をこぼす。

4月になると、東灘にある永井さんの長男の家で電気、ガス、水道が復旧したため、長男一家は神戸に戻った。また、長男の家の隣で永井さんの両親が暮らしていた実家は、震災で倒壊後、永井さんの友人が経営している工務店に頼んで、2×4工法で建て直してもらい、同年8月には完成したため、両親も実家に帰ることができた。「そこには明治39年生まれで、今年103才になる父親がまだ住んでいますよ」と永井さんは話す。