JR3PIO 関森 源治氏
No.5 長いSWL時代(2)
[IGYの思い出]
関森さんの50MHzのもう一つの思い出は、IGY(国際地球観測年)での、50MHzの受信である。JARLは、国際的なこの行事に協力し、JARL・IGY委員長に梶井謙一(JA1FG)さんを就任させ、電波の異常伝播調査、人工衛星の電波観測、南極観測隊との通信援助、特別気象観測日の通信援助などを行った。
ここで、国際地球観測年について簡単に触れておくと、1957年7月1日から1958年12月31日まで続いた、国際的な科学研究プロジェクトで、各国の協力の下12項目について研究がなされた。その12項目とはオーロラ、大気光(夜光)、宇宙線、地磁気、氷河、重力、電離層、経度・緯度決定、気象学、海洋学、地震学、太陽活動である。日本は、南極での観測を担当し、南極圏内の東オングル島に昭和基地を建設し、各種の観測に協力した経緯がある。
一方JARLでは、異常伝播調査のためにJA1IGY局を設置し、50.5MHzのビーコンを送信して、全国に受信レポートを求めた。そのビーコンの受信に成功した関森さんはJARLにレポートを送り、委員長の梶井さんから、折り返しQSLカードを受け取っている。文面は「JA1IGY局は国際地球観測年の一環として、周波数異常伝播発見の為、50.5MCで運用されております。今後とも受信レポートを下さるようお願い申し上げます。」と活字で印刷された脇に「レポート有り難く存じました」と、自筆で書かれていた。
梶井さんから送られてきたJA1IGYのカード。
[アマチュア無線の元祖・梶井さん]
関森さんにカードを送った梶井さんについて多少触れるならば、1925年(大正14年)に笠原功一(J3DD、JA1HAMなど)さんと1000kHzの電波を使って大阪・神戸間での電信による交信を行い、それが日本初のアマチュア無線交信といわれている。戦前はJARL関西支部の事務所を自宅に置くなどJARLの基礎づくりに尽力。また、東京に移った後は、戦後のJARLの再建、アマチュア無線の再開に走り回る。
1959年から10年間、JARLの会長を勤めた梶井さんは、この間に「電話級・電信級」試験の実施、JARLの社団法人化、クラブ局制度の実施、養成課程講習会制度の発足、アマチュア無線コードの制定などを行っており、多大な尊敬を受けているハムであった。関森さんは「その多忙な方から自筆のハガキが・・・・」と恐縮したと言う。
[ソ連の人工衛星を受信]
1957年10月4日、IGYの活動の一環としてソ連(現ロシアおよびその周辺諸国)は人類初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げた。人工衛星を打ち上げて、宇宙空間を遊泳させつつビーコンを発射して地球で受信することもIGYの計画にあった。ビーコンの周波数は108MHzと国際会議で決められており、まず米国が最初に打ち上げるだろうと見られていた。このため、米国ではアマチュア無線局も含め、全米各地で受信する体制作りを進めていた。日本も同様であり、JARLは全国的な受信体制を敷いていた。
そのような中でのソ連からの人工衛星の打ち上げは予想外であった。しかも、ビーコンの周波数は、国際的な取り決めと異なる20MHzと40MHzの2周波数であった。108MHz受信での体制づくりを進めていたJARLの会員は、慌ててコイルを巻き直すなど受信機の改造を始めた。ソ連からの人工衛星打ち上げの情報は、新聞社、放送局などか伝えたため、関森さんは新聞社に連絡を取り、周波数を教えてもらったと言う。
[竹竿を買いに走る]
情報を入手した関森さんは準備を始める。まず、受信用垂直アンテナを建てるために近くの竹屋で長さ13mの竹竿を買い求めた。ところが「あまりにも長いために持ち帰るのに街角が回れずに苦労した」ことが鮮明な印象と言う。受信には水晶発振の100kHzのマーカーを製作、受信プリセレクターを付加して周波数が一番安定している米国RCAのAR-88受信機で待ち受け受信を行った。
スプートニク1号の待ち受け受信に使用したAR-88(左)と自作のクリスタルマーカー(右)。手前はクリスタルコンバーター。
その結果、関森さんは衛星の最初の周回で受信に成功した。無変調のキャリアにBFOかけて受信すると、CWで「TTTTT」というTの連続が受信できた。さらに、音調が少しずつ低い方に変化するドップラー現象を捉えることができ、スプートニク1号からの電波と確信した。小電力ながら信号は強烈で、Sメーターを振り切らんばかりの信号強度で上空を通過していき、感動を憶えたと言う。この時の信号も関森さんはテープレコーダーで録音し、現在ではカセットテープにダビングしたものを大切に保管している。
[ドップラー効果]
このスプートニク1号の受信についてはJARLからの依頼を受けたハム、自主的にチャレンジしたハムも多かった。しかし、先に触れたとおり予定していた周波数とは異なったため、受信機の改造に手間がかかったり、雑音が多く真の信号との見極めが出来なかったりで、かなりのハムが苦労している。また、衛星が近づき遠ざかるにともない周波数が変化するドップラー効果に惑わされたハムもいた。関森さんは、衛星を受信する際にこのドップラー効果が起こる事を事前に知っていたため、信号を即座に見分けることができた。
受信成功のニュースは、東京を中心に各新聞社や放送局が競って取材し、放送局はその受信信号を放送しているが、最初の周回で受信に成功しながら、関森さんの所には取材もなく、また関森さん自身もそれを知らせていなかった。
[144MHzへの挑戦]
そのころ、関森さんは一方で144MHzにも挑戦を始めていた。「144MHzは1955年頃、わずかに自作派が試験電波を出す程度で、真空管式タクシー無線機や日本に進駐していた米軍などが放出した水晶式固定チャンネルFM機が出まわり、それを改造した」と言う。関森さんが必死になって144MHzをワッチしていたのはこのころである。
先に触れた関森さんの144MHz初受信は、1957年5月5日、JA2AHとJA2AQがQSOしていたAM(A3)の電波だった。これを契機に関森さんは144MHzにどっぷり漬かることになる。この頃、関森さんは144MHzの電波を受信しては受信レポートを送り、アマチュア局からカード(受信証明書)を受領しているが、「カードに手書きで、誠に丁寧な感想を記載してくれる局が多かった」と話す。そのことから、関森さんが送ったレポートが、それを受け取ったアマチュア局にとって、交信局以外に自局の電波がどこまで電波が飛んでいたかを判断する貴重な資料になったようだ。
JA2AH局から送られてきたカード。
その頃になってようやく50MHzに多くのアマチュア局の関心が集りつつあるものの、144MHzや430MHzはまだまだ開拓前の状況であった。1959年になると、電信級、電話級の制度が誕生し、初の国家試験が施行された。翌1960年になると、電波法改正により144MHz帯は146.0〜148.0MHzの2MHz幅が削られ、代りに430MHz帯の10MHzが与えられている。同1960年11月にJARLは、144MHz、430MHz、1200MHzを対象とした「2メーター・アンド・ダウン・コンテスト」と名付けたコンテストを実施している。これら周波数帯の活用促進の狙いであった。
[アンテナの自作]
当時のVHF帯の偏波面は水平か垂直か試行錯誤がされていた。対モービルに対しては垂直が良かったが、50MHzでは垂直のエレメントは長くなって使い勝手が悪く、わずかマリン用にしか使用されなかった。144MHzも当初は50MHzの延長で水平偏波が試みられたが、モービル局を相手にすることが多くなるにつれ、いつの間にか垂直偏波に変わっていった。当時のVHF用八木アンテナは、木の角材2本にエレメントを並べたものが多かったが。関森さんはアルミパイプを仕入れ、50MHzの4エレ八木と、144MHzの4エレ八木4列のオールアルミ製八木アンテナを製作した。これは当時としては珍しく、関森さんは部屋の中のこのアンテナを製作したが、「あまりに大きくて、まずは部屋から外に出すのに苦労した」と笑う。
部屋の中で製作した144MHzの4エレ八木x4列