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No.167 「平原の国、ポーランド旅行記」
2枚のQSLカード
ポーランド(SP)はJASTA SSTVアクティビティ・コンテスト※でSP4TKKと1998年8月3日にSSTVモードで交信した一枚です。バルト海に近い地方都市でオルシュティン(Olsztyn)の「オルシュティン城」を印刷してあり、この城に地動説を唱えたニコラウス・コペルニクスが4年間滞在(1516-1519、1520-1521)したという説明を見つけました。
※日本アマチュアSSTV協会主催のコンテスト(8月1日〜31日)。
SP4TKKと3Z9U 2枚のQSLカード
もう一枚のQSLカードは2001年2月11日、21MHz帯のRTTYモードで交信した3Z9U(SP9UNX)です。ポーランド南部、11世紀中ごろから1596年までの約550年間ポーランド王国の首都として栄えた都、クラクフに近いウストロン(USTRON)のRTTY愛好家です。カードはSP9UNXでもコンテスト用の3Z9Uにチェックマークが入っています。
ポーランドへ
ゴールデンウィーク後半の5月5日「とっておきポーランド8日間」 (JTB旅物語)に参加しました。羽田空港国際線旅客ターミナルからルフトハンザ・ドイツ航空LH717 1405に搭乗してフランクフルト着1845、ここでLH1352に乗り換えてワルシャワ着2150。すでに出発から約13時間が経過していました。今夜の宿泊は空港から徒歩5分の「コートヤードバイマリオットエアポート」です。
ザモシチ
5月6日、朝食後、バスにてルブリンを経由してウクライナの国境に近いザモシチへ(走行距離253km)。人口17万人弱の小さな町ながら1992年、旧市街全体がユネスコの世界遺産に登録されました。旧市庁舎、聖トーマス大聖堂、旧ザモイスキ宮殿、アルメニア商人が1585年に移り住んだ邸宅などを観光しました。この後、約319km走行して550年間ポーランド王国の首都として栄えた都、クラクフのホテル「スイング」に到着しました。
バスの窓から眺めるポーランドの国土は平野が広がり、菜の花畑や牧草地が延々と続く農業大国です。ドライブ中にHF帯大型アンテナが目に飛び込んでこないか目を凝らしていましたが徒労に終わりました。ポーランドの国土は日本と比較して5分の4、人口も約3分の1の3,800万人、中央ヨーロッパに位置する共和国家です。
バスの車窓は平原地帯どこまでも続く
市街地や高速道路でホイップアンテナを付けた乗用車やトラックを見かけて、パーキングエリアでドライバーに声を掛けてみました。
「もしかしてモービルハムですか?」
「車同士の連絡に使っているよ。CBラジオだよ。」
クルマの中を覗くと、ダッシュボードにユニデン製のチャンネル表示の小型トランシーバが装着してありました。
タクシーのトランクリッドに付けた車載型アンテナ
ピエリチカへ
5月7日、朝食後、バスに乗り込むときに運転席にCB無線機が装着してあることに気づきました。バスのルーフを見ると短縮タイプのアンテナを見つけました。この国は従事者免許の要らないCB無線が普及しているようです。クラクフの南東約15km走行してピエリチカへ到着しました。この町の地下に世界有数の規模の岩塩採掘場(1250-1950)があります。1978年にはユネスコの世界遺産に登録されました。地下64m〜325mに及ぶ入り組んだ採掘場のツーリストルートを約2時間観光しました。この後、約15kmバスに乗ってクラクフへ移動しました。
観光バスの運転席(左横)にCB機が装着してある
ピエリチカ岩塩抗(世界遺産)
クラクフ
ワルシャワが東京ならクラクフは京都にたとえられる古都といわれる歴史的な街並みは1978年にユネスコの世界遺産に登録されました。中世のたたずまいを残す旧市街地や歴代ポーランド国王の居城ヴァヴェル城、総面積4万m2の中央広場、14世紀に建てられた衣服や布地の交易所だった織物会館、1222年に造られたゴシック様式の聖マリア教会などを観光しました。昼食はジュレック(ポーランド風みそスープ)。「スイング」に連泊。
アウシュビッツとビルケナウ
5月8日、バスでクラクフの西65kmにある地方都市オシビエンチムへ。この町の郊外にナチス・ドイツの強制収容所「アウシュビッツ」跡が保存されており、現在は国立オシフィエンチム博物館として一般に公開されています。ドイツの支配下におかれた1940年、ポーランド人の政治犯を収容するために造られましたが、次第にユダヤ人、少数民族ロマ、ロシア人などを収容するようになりました。
アウシュビッツ収容所の正門
アウシュビッツ収容所の内部
ビルケナウ収容所の入口
ビルケナウ収容所監視塔から見た「特別積み下ろし場」の光景
・「ユダヤ人は完全に絶滅させなければならない人種である」。ハンス・フランク総督
・「我々はドイツ国民をポーランド人・ロシア人・ユダヤ人とジプシーから解放しなければならない」オット・ティラックドイツ第三帝国法務大臣
・「ポーランドの指導者全員を痛めつけるために彼らを探し出すことだ。ポーランド人の専門家全員を我がナチス・ドイツの軍事産業で利用する。ポーランド人全員がこの世から消える。」ハインリッヒ・ヒムラー親衛隊最高司令官
日本語ガイドブック「アウシュビッツ・ビルケナウ その歴史と今」に記されている3人の言葉です。
4号棟(絶滅計画)、5号棟(犯罪証拠)、6号棟(囚人の生活)7号棟(住居・衛生状態)、死の壁、11号棟(死のブロック)、集団絞首台、焼却炉・ガス室などを博物館で唯一人の日本人ガイド・中谷剛さんの案内で見学しました。続いて2km離れた「ビルケナウ収容所」に移動しました。面積は1.4km2、300棟以上のバラックが並ぶアウシュビッツよりも大規模な収容所でした。詳しくはオシフィエンチム博物館のホームページをご覧ください。http://en.auschwitz.org/m/
チェンストホーヴァ
クラクフから北に約100km、チェンストホーヴァにやってきました。1382年に聖パウロ修道会のために建てられた僧院です。ここに有名な聖母の画「黒いマドンナ」が信仰を集めています。ここで1時間ほど参観した後、バスで約171km走行してヴロツワフのプラチナムパレスに到着しました。
かみ合わない会話
ツアー参加者は20人、年齢は50後半〜70歳代で占められていました。夕食会で趣味が話題になり、隣席の夫婦から「アマチュア無線ってあの化石の・・・」と問われて言葉に窮しました。「映画“オーロラの彼方へ”で化石と言われたけど・・・」まさか異国で不意を突かれるとは?「無線で何を話すの?」「携帯電話で十分でしょ。」「技術を追究するのがアマ無線ですよ。」「・・・」、写真電送(SSTV)、文字通信(RTTYなど)を持ち出してみたものの、スマートフォンで実現できることばかりで感心してもらえません。少し方向を変えて衛星通信、EMEを説明してみたものの、話がかみ合わない会話に終始しました。
ヴロツワフ
5月9日、2006年に文化遺産に登録された「百周年記念館」を訪ね、1911〜1913年にマックス・ベルクの設計で造られた世界最大級のコンクリート製円形ドームを見学しました。さらに「ヤボル大聖堂」(世界遺産)は、1655年に完成した半木造の建物として有名です。パイプオルガンは1855年に造られました。この後、首都ワルシャワに向けて420kmのドライブを経てインターコンチネンタルへチェックイン。夜はフォークロアディナーショー(伝統的民族舞踊)を楽しみました。
「ヤボル大聖堂」(世界遺産)
「ヤボル大聖堂」半木造の建物
ワルシャワ
5月10日、午前8時出発。67km走行してブロコフ村へ。塔が3つある聖ロフ教会を見学した後、11km移動してジェラゾポーラへ。ピアノの詩人と呼ばれたフレデリック・ショパン(1810〜1849)の生家および庭園に案内されました。生家はきれいに保存されており、ショパン自筆の楽譜や家族の写真、当時のピアノなどの展示物を興味深く見学し後、手入れの行き届いた庭園の散策も心癒されるひと時でした。続いて「ショパン博物館」でショパンが最後に使ったプレイエル社製のピアノなど7千点の資料、写真など見た後、土産コーナーで2枚組のCD「THE VERY BEST OF CHOPIN」を購入しました。
この後、市内に戻り150年前に創業したチョコレートメーカー「ヴェデル」にてカフェタイム(無料)を楽しみました。ここでたくさんのお土産を買うことになりました。
ショパンの生家と庭園
ショパンの自筆の署名
続いて世界遺産に登録されているワルシャワ歴史地区に移動して旧市街の王宮、16世紀以来の新市街を見学しました。両地区とも第2次世界大戦で破壊されましたが、戦後、写真や設計図に基づいて完全に復元したと聞きました。次に「聖十字教会」を訪ねました。近くにコペルニクス像があり、同教会にはショパンの心臓が埋められていることで有名です。次いでキューリー夫人の生家を訪ね、旧市街広場、ワジェンキ公園内のショパン像、遠くから大統領官邸を眺めました。
ワジェンキ講演のショパン像
夜は、新進気鋭の女流ピアニスト(Ewa Beata Ossowska)による演奏会に出かけてショパン・ピアノ曲の16曲を鑑賞しました。演奏終了後、同ピアニストによるCD「CHOPPIN RECITAL」を20 Euroで購入し、ピアニストと記念写真を撮りました。これにてポーランド観光を全て終え、5月11日ルフトハンザLH613便にてワルシャワを離れてミュンヘンへ。ここでLH714に乗り換えて5月12日0955羽田空港に戻りました。
「ショパンリサイタル」のCD
あとがき
1920〜1922、ポーランドから8回、計756名のポーランドの孤児が日本に運ばれ手厚く保護されました。ポーランドはこの善意を忘れずに阪神大震災の時に、日本の被災児60名がポーランドに招かれて歓待されました。また第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原千畝氏は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。外務省からの訓令に反して、大量のビザを発給し、6,000人にのぼる避難民を救いました。東北大震災(2011)の時、ポーランド・ラジオのイニシアチブにより、著名ピアニストによる日本支援のためのアルバム「日本と連帯して-日本がんばれ!」が発売され収益はすべて、日本の震災者の支援のために寄付されました。このように日本とポーランドをつなぐ善意の歴史がありましたので書き留めておきます。