創世記はヘブライ語で冒頭の言葉をとって「はじめに」という意味と呼ばれていますが、ここでは「モービルハムの始まり」と解釈して頂き、モービルハムをこよなく愛した先駆者たちの歴史をたどり、モービルハムクラブの活動の足跡を明らかにしました。

1959年MHC創設(昭和34年10月17日)

JA1YF (J2NF) 石川源光氏、JA1OS (J2OS) 柴田俊生氏、JA1AC(J2MI) 村井 洪氏が東京・三田の日本赤十字本社前に車で集まり、ミーティングを開いてMHCモービルハムクラブ (Mobile Ham Club) を設立し、JA1YF 石川源光氏が会長に就任しました。

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ハムフェアのJMHCコーナーにてJA1CA(左)とJA1OS(右)

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名簿 MHC正会員名簿(1961年1月) (※クリックすると画像が拡大します。)

当時の無線機はRT‐70、RT‐66、67、68、PRC‐6~10、BC‐1000、BC‐1335、VRC‐2、FRC‐20など米軍の放出品がほとんどで、RT‐70が圧倒的多数を占めました。出力電力は0.5Wと小出力のため送信管 2E24、6146、829Bなどでブースターを製作して、DC‐DCコンバーターやバイブレーター、ロータリーコンバーターなどでB電圧を供給しました。

1961年JMHCに変更(昭和36年4月15日)

1961年4月、MHCは会合を開いてクラブの名称を MHC から JMHC (Japan Mobile Ham Club)ニホンモービルハムクラブ に変更しました。同時に会長は JA1YF 石川源光氏から JA1DWI 山田豊雄氏に変わりました。

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JMHCの会員に頒布されたステッカー

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モービルホイップに取り付けたJMHCの三角旗

1959年~当時、米軍放出の無線機を乗用車に搭載してモービルハムを始めたメンバーが年一回集まり親睦会を開いて遠乗りを楽しんでいました。 JA1DWI山田氏は『米軍放出のRT‐70やPRC‐6、BC‐1000の改造機に832や829Bのブースターを併用して、当時のハイテク最先端を行っていました。ブースターのケースを板金屋に造らせると、寸法を誤り真空管の角が当たるためにヤスリで削ってケースに収めました。そして電源オン、結果はよく働きました。』

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PRC‐6で交信中のJA1DWI山田豊雄氏。(1960年頃)

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RT‐70(47MHz~58.4MHz)車載用FM送受信機(JA1EQI藤田進氏所蔵)

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PRC‐10(38~54.9MHz)車載小型FM送受信機。(JA1AOU近藤栄一氏所蔵)

BC‐1000は周波数の上限が48MHzでしたので、51MHzに変更するには同調回路のチタコンの容量を減らすと52MHzまで上げられました。受信感度に不足を感じてRF段の1T4に替えて6AK5挿すと結果は上々でした。もちろん真空管のヒーター回路に30オームを挿入して6AK5に対応しました。間もなく1A3が断線したので1N34を代用して修復しました。これは柴田俊生氏の苦心談です。

1961年、同グループは毎月のように「遠乗会」を開催しました。千葉県銚子(5月)、長野県軽井沢(6月)、神奈川県箱根(9月)、磐梯吾妻スカイライン(10月)、1962年1月(鎌倉・江ノ島)、3月(水戸)などへ出かけました。ザッという音ともにスケルチが開いてFM特有のクリアな音声が飛び込んできました。車とアマチュア無線の楽しさを倍増したモービルハムの原点がここにありました。交通情報のやり取りにはじまり、見知らぬ地域での観光案内、旅館の手配まで手厚い案内をしてくれてハム仲間の友情に満ちていました。

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ヒルマンにRT‐70を設置したJA1ID倉本次彦氏のモービル局

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リアバンパーに51MHzの1/4波長(1.5m)ステンレスホイップを装着(JA1ID)

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ルノーとホイップアンテナをにぎるJA1HM林秀夫氏

1962年、JARLは各バンドに非常通信周波数を指定しました。FM:29.0~29.2MHzと51.0~51.2MHz、AM:28.1~28.3MHzと50.4MHz~50.6MHz。「非常通信の行われている時にこれらの周波数内で無駄なQSOをしないようにしよう。」と申し合わせています。

自動車とアマチュア無線をドッキングしたモービルハムの仲間たちは、クラブ組織を東京・城南(JA1HX)、城西(JA1YF)、城東(JA1AEW)、多摩(JA1JTB)、横浜(JA1BLN)、地方区(JA3RF)に分けてそれぞれに責任者をおいたのが後に、各地にJMHC誕生するきっかけになりました。 同年4月の総会で周波数偏移を討議して「JMHCの規格として2MHz台のクリスタルを24逓倍して±15kHzの周波数偏移を得る」と決定しました。

この頃、車載無線機の花形だった米軍放出品が品不足となり、これに変ってタクシー無線の払い下げ品が各地に出回りはじめました。JMHCメンバーの搭載機種別使用率で、70%以上の高率を示したナショナル製のFM‐60‐10の周波数は54MHz~62MHzあるいは62MHz~68MHz用の2種類で水晶制御周波数変調方式の無線機でした。1963年9月、JMHCはこれまでの51MHz 1チャンネルからサブチャンネルに51.2MHzおよび54MHz付近を提案しました。いよいよ多チャンネル化と全国的な普及に拍車が掛かりました。

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払い下げのタクシー無線機

やがてハイテク最前線はトランジスタに移り、JMHC東京の有志は50MHz FMトランシーバーの基板を完成しました。1966年、第1回全国大会(昭和41年8月20日、蒲郡)があり、大会に基板キットを持ち込みました。組み立てはJA1GNQ市島徳一氏、JA1AQA/JA1FFY渋谷昇三氏が行い、JA1AOU近藤栄一氏が「いつも運び屋だった」と振り返っています。

FDFM-1登場!

2013年2月2日、アイコム東京事業所(東京中央区日本橋浜町3-42-3 住友不動産浜町ビル)を会場に「アイコム アマチュア無線フェスティバルin 東京」が開催され、創業者の井上徳造氏(JA3FA)と桜井紀佳氏(JA3FMP)によるトークショー「アイコム50年」にて興味深いお話を伺うことができましたので、ここに再掲して参考に供します。(No.162 「アイコムのハムフェスに参加して」一部抜粋)

桜井氏「次に作ったのが50メガのFMのトランシーバーFDFM-1とFM-10とFM-100というブースターを発売しました。」

井上氏「その頃のFMは51MHzでJMHCが全国的に広がりを見せていました。タクシー無線機のジャンクを51MHzに改造して使い始めましたが、水晶制御ですから1chか2chで始まりました。そのうちに2メーターバンドが144.48MHzで始まりましたが、これも初めは1chか2chでした。しかし、FMの運用者がだんだん増えてきて、そこから苦難の連続になりました。」「当時はチャンネルごとに送信と受信の2個の水晶振動子が必要でしたから地域毎に異なるチャンネル分を用意しなければならない、販売店が悲鳴を上げて、なんとかしなくてはいけないということでシンセサイザーを開発するようになりました。」

1966年(昭和41年)JMHC東京に変更

JA1OS 柴田俊生氏とJA1GW(J2IC) 日比五郎氏が全国を回り、熱心に地域クラブの誕生を促しました。その結果各地にJMHC××が誕生しそれぞれ独自の活動を展開しながら、年一回の全国大会を開催して親睦を深め、2015年静岡大会が節目の50回となりました。

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タクシー無線機を改造した51MHzFM機を調整するJA1GW日比五郎氏

1971年(昭和46年)東京オールドに変更

JMHC東京の他、首都圏にJMHC東京大井町、JMHC神奈川、JMHC西東京が誕生したためにJMHC東京は名称を東京オールドに変更しました。

2010年 第45回JMHC全国大会(東京大会)

6月4日、東京オールド(会長JA1DWI、山田豊雄氏とJMHC東京大井町(会長JA1CX、朝倉 昭氏))の主催による第45回JMHC全国大会(東京大会)は、JR品川駅に近い品川プリンスホテル(東京・港区高輪4010-30)メインタワー10階大宴会場「大津」にて開催され全国から13クラブ、51名が参加して親睦を深めました。

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第45回JMHC全国大会(東京大会)東京・品川プリンスホテル(2010年6月4日)

MHC 56年の歴史に幕

2015年6月8日(月曜日)、東京オールド(旧JMHC東京)は東京・港区高輪の駅からほど近い品川プリンスホテル・メインタワー38階のレストラン「味街道五十三次」において12時30分から恒例のランチ・ミーティングを開きました。開会に先立ち横瀬 薫氏(JA1AT)から6月5日、山田豊雄会長急逝が報告され黙とうしました。

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解散時の記念写真

後列左からJA1FUY、JA1FZA、JA1AEW、JA1AOU、JA1DPF、JF1AMF

前列左からJA1AOR、JA1AT、JA1JL、JA1CX、JA1ABE、JA1BZF、JA1INX

ここで事務担当の横瀬氏から「山田豊雄会長が亡くなった機会に、高齢化した東京オールドの解散を決意するに至った。」と報告されました。「後を引き継いでくださる方がおられるならお願いしたい。」と出席者に意見を求めましたが、平均年齢が80歳以上の会員から明確な意見がでないまま解散が決まり、1959年創設のMHCを起源とする東京オールドは54年の歴史に幕を下ろしました。

あとがき

横瀬氏は「そろそろ解散を考えてもよいのでは?数年前より事務担当を交代したいとお願いしてまいりましたが、今年で退任したいと思います。」と相談していました。これに対して山田会長は「そうですね。」と言葉少なに肯定的だったと言います。亡くなる前に「東京オールド ランチ・ミーティング」の出欠のはがきに「横瀬さんにはいつもまとめ役を務めていただき本当にありがとうございます。」と記されていました。

参考資料:モービルハム 1998年2月号 p.19~22、東京オールド・ホームページ