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No.66 上海のドクターハム BA4ADデヴィさん
訪中団の一行7名は名門の誉れが高い「華東師範大学」にクラブ局(BY4AEE)を作る目的で中国の上海市を訪問しました。 ユナイテッド航空で成田から3時間、定刻より2時間遅れて上海国際空港へ到着。22時が過ぎているのに招待してくださった上海ラジオスポーツ協会(SRAS)のBA4AA徐儒秘書長(当時)と華東師範大学の姚(ヤオ)講師(現在、通信工学科教授)が出迎えてくれました。
日本人に人気の高い平和飯店のオールドジャズ
日本から持ってきたHFトライバンドアンテナやトランシーバー、DC電源、アンテナカップラー、TNC(ターミナルノードコントローラー)、同軸ケーブル30mなど、無線機材一式の通関を済ませて迎えの車に乗ったのが23時ごろ。今と違い高速道路が整備されておらず、空港から市内まで渋滞した道路をノロノロと走り、中山北路の華東師範大学のゲートをくぐり、大学構内の迎賓館に到着したのが0時ちょうどでした。
予期しない出来事
これで休めるとホッとしていると、姚講師が夕食にしましょうと誘いにきました。この国の人達は食事を大切に考えているために断ることができないのです。”郷に入っては郷に従え”のことわざにしたがい、夕食をとっていない姚講師に付き合うことにしました。訪中団の7人は中国人スタッフと、本場の中華料理を食べながら片言の中国語と英語によるたわいないおしゃべりに興じました。喧騒の中で寡黙だったAさんが、とつぜん立ち上がりトイレに行こうと歩き始めました。先ほどから元気がなさそうに見えていたので気にしていると、とつぜん崩れるように床に倒れました。
駆け寄って顔を覗き込むと、ぐったりして蒼白、ただ事でない様子。慌てる日本人を尻目に姚講師がキャンパスに常駐する医師をすばやく呼んでくれました。医師の到着を待つ間、Aさんをベッドに担ぎ込みました。間もなく女医さんが到着して、一安心と胸を撫で下ろしていると、「言葉が通じなくて困っている」らしいと、Aさんに付き添っている友人から連絡が入りました。ここで日本語の通訳がいないことに気づきました。女医さんは言葉が通じない患者に戸惑いの表情がありあり、問診ができないまま立ち尽くしていました。
ドクターハム登場!
「そうだ、ドクターハム(BA4AD)のデヴィさんにSOSだ」 SSTVの交信を通して旧知のデヴィさんの住まいが大学の構内にあることを思い出しました。夫人(BD4AD)が華東師範大学の元教授という関係からキャンパスの宿舎が住まいなので助けてもらうことにしました。電話で事情を話すと、深夜にもかかわらず快く駆けつけてくれました。
デヴィさんは流暢な英語を話すので、これで意思の疎通ができると安心していると、問診に通訳が必要と再び呼ばれました。「エッ、臓器の単語なんてわからないよ」とつぶやきながら駆けつけると二人の医師がAさんを見守っていました。女医さんが控える形で、デヴィさんの問診が始まりました。「ここ痛い?」、「ここは気持ち悪い?」、腹部のあちらこちらを押して触診を始めました。英語と日本語の変換がうまくいって診断がついたようです。女医さんに所見を話した後、デヴィさんに促されて部屋の外に出ました。
個人局BA4ADを開局当時のシャック(1992年12月)
個人局の開局第一声のQSLカード(1992年12月22日)
「どこも悪くないように思う。心理的なストレスじゃないかな、Aさんに声をかけて気持ちを引き立ててれば、明日は大丈夫と思う。入院の必要がないと思うが、女医が入院を強く勧めている」「大事をとって入院するのもいいが、いったん入院すると、中国では一週間はでられない規則だからよく考えたほうがいい、後はあなたの判断に任せたい」と、ドクターハムらしい適切なアドバイスをいただいた。
無線技術に救われる
心理的なストレスなら、身体を休めると回復するに違いない。一夜空けて同室のTさんに昨夜の様子を尋ねると、ぐっすり寝込んでいたという話にホッとする。Aさんは朝食を普段どおりに食べて、仲間から「Aさんの声が聞こえないとさびしいからね」次々にやさしい言葉をかけられて元気はつらつ。3エレメント・トライバンダーをタワーに上げる作業では率先して先頭に立ち、てきぱきと指示を出すほどに回復しました。昨夜の騒ぎがウソのような行動を目の当たりにして「よかったね、やっぱりAさんがいなくっちゃ!」そこには友人を気遣う仲間の優しいまなざしがありました。
現地人ハム達や、同行していた親しい無線仲間達の思い遣りとやさしさが旅の疲れと言語の壁がもたらした重度のストレスからAさんを解放し、Aさん自身が日頃からアマチュア無線を通じて培ってきた<言葉や文化の壁を超える無線技術と知識>が、慣れない外地での彼の心と身体を一夜にして蘇らせたのです。
F9ZUを訪ねて
郭徳文(Guo De-wen)先生の通称はデヴィ(Davy)さん、上海第2医科大学放射学教授で上海胸科医院放射線科主任医師(当時)として活躍。1940年代にアマチュア局を開局、建国の激動期を経て1990年、クラブ局(BY4AOH)でアマチュア無線を再開、同時に個人のコールサインBZ4CTWを取得。1992年待望の個人局BA4ADを開局し、自作のパソコンによるパケット通信やスロースキャンテレビ(SSTV)などに取り組み、SSTVコンテストにも積極的に参加しました。
1995年5月、F9ZUとパケット通信で結び、フランス人の外科医と結婚してボルドー地方に住むデヴィさんの娘さんにメッセージを届けたことがあります。1997年、夫人を伴いフランスのボルドー地方で開かれた放射線学会に参加したときに、「ボルドーDXクラブ」の病理学が専門のF9ZUポールさんを訪ねました。あれから2年、初対面の二人のドクターハムは、スペシャライズド・コミュニケーション(専門化した通信)を語り合い、互いの国の文化について遅くまで話が弾んだということです。
BD4ADグレイスさん(左)とBA4ADデヴィさん(右)
SSTV送信画像(デヴィさんと2人のお孫さん)
2005年、上海ラジオスポーツ協会(SRSA)からBA4CH、BA4AA、BA4AC、BA4AD、BA4AE、BA4AFのオールドタイマーが終身会員に推されて会費が免除になりました。グレイス夫人(BD4AD)はアマチュア無線の良き理解者として夫を支えて共に80歳、大学時代に陸上選手として鳴らした夫人は見た目にも若い。因みにデヴィさんのプリフィックスBAは個人局1級、グレイスさんのBDが同2級を示します。
好奇心いまだ衰えず
1990年、中国福利会の鄭正文先生(BY4ALC、BZ4CW)からデヴィさんを紹介されました。お会いしてみると学者タイプの紳士で英会話がとてもお上手でした。1940年代に開局運用のオールドタイマーとわかりました。上海のオールドタイマーは「上海電子学会」(BY4AOH)を結成、クラブ局で運用技術を磨きながら個人局の開設を政府に働きかける一方、50年の遅れを取り戻すかのように先進技術の勉強会を盛んに開いていました。
オールドタイマーの皆さんとも親しくなり、ご縁があって笠原さん(故人、ex JA1CLN)と共に上海電子学会の海外会員に迎えていただきました。この頃、「BY4AOH-15」のコールサインで2mFMにオンエアを許されました。「-15」が個人を識別しており、外国人に運用を許した珍しい事例になるかもしれません。1992年12月22日、自宅に開設した待望の個人局に大きな喜びを感ずるデヴィさんでありました。このとき作ったQSLカードが、個人局の記念すべき1枚となりました。
ARRLのW1AWシャックで記念撮影(2001年8月22日)
F9ZUとBA4AD(1974年)
2001年、放射線学会に参加のために渡米、コネチカット州のARRL本部を訪ねてW1AWのシャックに収まっています。50年余のアマチュア無線禁止を経てハムのメッカ、ARRLを訪ねた気持ちはいかばかりだったでしょうか。2005年、集合住宅の屋上に東西と南北に張った二つのダイポールが激しい台風にやられて直せなかったと悔しそうですが、今年はアンテナを再生してパケット通信やSSTVにカムバックしたいと80歳の抱負を語り、かくしゃくとしたところを見せています。