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No.59 不思議なめぐり合わせ 祖父はオールドタイマー
編集者の頃、香川県大川郡白鳥町の植田さん(JA5NG)から小包が郵送されてきました。何が入っているか不審に思いつつアマチュア同士の気安さから包みを開くと中から一通の手紙とともに古めかしい装丁のアルバムが出てきました。
J4EAが遺したアルバム
『親類が大昔、昭和10年頃J4CW、J4EAで出ていました。その頃の各局の写真を108枚いただいているのですが、見飽きて必要ありませんので、もし皆さんに見ていただけるようでしたら寄贈します。de JA5NG 』
すぐには利用法を思いつかないまま書庫にしまいこんでしまい、いたずらに25年が経過してしまいました。なんとかこのアルバムを生かした企画を立てなくてはと思いながら、表紙をめくると昭和8年(1933年)開局のJ4EA(岡本良雄氏)のシャックが冒頭を飾っていました。『昭和8年8月19日付 南仏逓相ヨリ許可ニナリタル 最初の発信機ト音声増幅、変調、受信機ナリ』の添え書きがあり、ページをめくると当時のオールドタイマー(古顔)の姿がモノクロ写真に鮮やかに残されていました。
家庭的な宮井さん
始めに興味を引いたのがJ3DE宮井宗一郎さんのシャックでした。壁面を埋め尽くすQSLカードに囲まれてお子さんをひざに抱く宮井さん、かたわらに夫人が寄り添う家庭的な写真に注目しました。『昭和7年(1932年)、宮井さんが「日本短波長無線電信電話 実験局名簿=QRA BOOK」の編集、自費出版を行い、改版ごとに全アマチュア局と関係方面に無料で配布されました。QRA BOOKの表紙は宮井さんの手書きのデザインと思われ、本文は横書きの活版印刷で丁寧な編集がなされていた』と岡本次雄(JA1CA)さんが「日本アマチュア無線外史」p.97に書いておられます。
宮井宗一郎さん(J3DE)家族と共に収まった珍しい写真
発行のいきさつを最終版となった昭和15年の同書の序文に次のように述べておられます。『小生のJ3DEを逓信省より許可されました一周年記念に、謄写版にて昭和6年12月に全実験局に贈呈致しました。=中略= その後、大阪毎日、東京日日新聞社よりハイパワーの経済的及び凸版写真版の製版部のご援助を得て活版にて本格的なものを作り贈呈し得る様になったのでございます。=後略=』(アマチュア無線の歩み p.119~120)
YL第一号の千代乃さん
杉田千代乃さん(J2IX)はYL第一号として有名で、ヘッドフォンをかけてCWを受信する姿をいろいろな印刷物で見ていましたが、 3人のOM(J2GW、K6CQV、K6CRU)に囲まれた写真を見るのは初めてで、ハワイの日系アマチュアとの交流を示す貴重な写真の発見です。写真の傍らには岡本さんによる「vy fb YL is J2IX」の書き込みがありました。
昭和9年(1934年)J2IXで活躍の杉田千代乃さん(当時26歳)
昭和7年(1932年)、杉田倭夫氏(J1DN)の急死により、ハム仲間から「いっそのこと、妹さんにハムをやらせてみては・・・」「兄さんの遺志も継げるし、リグもそっくり役に立つ」、文化学院に通っていた彼女は、はじめしり込みしました。
「兄の交信を見てきましたが、私なんかにはとても・・・」
「そこをなんとか、トンツーさえ覚えれば、あとは引き受けます」
乗りかかった船だ、ハム仲間はあきらめなかった。「お兄さんの遺志を・・・」という殺し文句に負け、千代乃さんは承諾した。難物の無線工学を矢木太郎(J1DO、JH1WIX)さんが担当した。念願の国家試験もパス、逓信省のいきなはからいで兄のコールサインを引継ぎ、昭和9年(1934年)10月16日、J1DN(後にJ2IX)で電波を出した。昭和12年(1937年)に鈴木雄二さん(後年の小田原市長)と結婚して鈴木姓に。(「ハム半世紀」p.64~66)戦後カムバックしてJH1WKSで活躍されました。平成3年(1991年)5月20日没。
左から半田氏(J2GW)、K6CQV、杉田千代乃さん(J2IX)、K6CRU
非常通信を支えた河野さん
岡本さん(J4EA)のシャックを訪ねた河野正一さん(J3CX)がおどけた写真を残しています。撮影したのは昭和9年5月29日とあり、函館大火からほぼ2ヵ月後に撮られた写真とわかりました。函館大火について田母上栄氏(J7CG、J2PS、MX3H、JA1ATF)は「CQ」昭和34年1月号”私のりれき書“で次のように述べています。
岡本良雄さん(J4EA)と河野正一さん(J3CX)右
『昭和9年(1934年)3月21日、折から強風の中、漁家一軒から発した火により函館市の90%が灰になった。このとき海底電線の中継所も全焼し、そのため本州と北海道の連絡は落石無電局のみとなり、救助関係の重要連絡が途絶し、北海道庁始め関係方面の困り様は一方ならぬものであった。その結果、北海道庁の実験局の準備委員の木村氏より、なんとか内務省と連絡をとって協力してくれないかとの依頼があった』
(この後、河野さんに関する記述を見つけました。)
『今日と違い非常通信が目的外通信として処罰される時代であったので、ちょっとためらったが引き受けることにして紆余曲折があったものの、その後3日間非常通信を続けました。この非常通信中にQRMする局があると堀口文雄氏(J5CC)、河野正一氏(J3CX)等が注意してくれたりしてご協力くださったということです』
(アマチュア無線のあゆみ JARL p.122~124)
祖父の若い頃の写真が見たい!
「オールドタイマーが遺した一冊のアルバム」※1 を見たJP1×××佐藤龍之介(仮名)さんが、記事の中にJ4CTのコールサインを見つけて仰天したということです。
『リストにあるJ4CT(後JH4GGN)堀野治助は私の家内である7M3×××の実の祖父に当たる人で、確か昭和10年(1935年)の開局です。結婚前に亡くなっておりますが、彼の記事がCQ誌などに紹介され、50年以上前の機械でQRVしている方が居るというので読んで感心したのを憶えております。山口県阿武郡田万川町からQRVしておりました。戦前に自作した無線機はJARLの展示室に寄付され、その後、電気通信大学の展示室に移設されたと聞いております』
堀野治助さん(J4CT)の肖像(昭和8年ごろ)
『ところで、家内と義父を驚かすためによろしければJ4CTの写真をメール添付で送ってもらえないでしょうか?見たことのない昔のシャックの写真を見せて上げられれば、なんとも幸せなのです』 早速、アルバムの写真をスキャンニングしてメール添付で送ると、次のような返信がありました。
『J4CT堀野治助OTのシャック並びに肖像写真を受け取りました。心から感謝、VY VY TNXです。神戸に住む義父並びに山口県阿武郡田万川町江崎に住む義理のおじに写真を添付して、転送しました。メールを見た神戸の父からすぐに電話があり、こんな珍しい写真は今までに見たことがない、何かのご縁があって戻ってきたとの喜びの声を聞くことができました』
『義父によると、シャックの写真はおそらく昭和8年くらいのSWLの時かもしれないこと、義父が育った現在の家の方ではなく、国鉄江崎駅前に住んでいた頃の写真だろうとのことで、祖父の開局したのが昭和10(1935年)年8月1日で、義父が生まれたのが昭和14年(1939年)1月なので、それまでの新婚生活当時の写真ではないかとのことでした』※2
堀野治助さん(J4CT)のシャック
あとがき
アルバムに遺された岡本良雄氏(J4EA)が遺した一冊のアルバムから宮井宗一郎(J3DE)さん、杉田千代乃(J2IX)さん、河野正一(J3CX)さん、堀野治助(J4CT)さんの写真からいくつかのエピソードを掘り起こしてみました。文献を通読しながら先人の生き生きとした活動に目を向けることとなり、無線通信へのあくなき探究心と今に変わらないアマチュア仲間の親しい交流を知ることができました。
JP1×××佐藤龍之介さん(仮名)に初めてお会いしたのが、南ドイツのフリードリヒスハーフェンで開かれるヨーロッパ最大のハムの祭典「Ham Radio」の会場でした。取材中に親しみを覚えて佐藤さんにインタビューを行いましたが、この出会いから2年が経過してオールドタイマーが遺したアルバムが再び佐藤さんを引き合わせてくれました。めぐり合わせの不思議を感じないではいられません。
※1 「オールドタイマーが遺した一冊のアルバム」No.1~3 QTC-Japan.com
※2 JP1×××佐藤龍之介さんの電子メール
参考文献:
「日本アマチュア無線外史」JA1CA岡本次雄 JA1AR 木賀忠雄 p.97 電波実験社
「ハム半世紀」香山 晃 p.64~66 電波実験社
「アマチュア無線のあゆみ」p.122~124 JARL