中国の東北地方、ハルビン生れのKさんと出版社勤務のH君を伴い北京空港に降り立ったのは、寒さが最も厳しいと言われる1月下旬、気温は-4~5℃で冷え込みが厳しい。ハルビン工業大学から出迎えの李さんに導かれてハルビン行きの地方便に乗り換えて、その日のうちに目的地に到着のはずが「今夜の便は満席で取れない」と取り付く島もない話を聞かされて仰天!早くも暗雲が立ちはだかり幸先が悪い。

北京空港で立ち往生

ハルビン工業大学の学生会館にアマチュア無線局をつくるために日本から無線機とアンテナを運んできたのに、いきなりアクシデントに遭遇、李さんの話では「4人分のチケット代を立替えるだけのお金を持ち合わせていない」と言うことで、航空券の予約も購入もできなかったとわかり、李さんを責めても仕方がないので、もう一度、航空券の売り場に行って交渉してもらうことにしました。

ハルビン工業大学のある街並み

ハルビン工業大学の正門付近

程なく戻り「今日の最終便は取れない、明日も取れるとは限らない」という意外な返事でした。1ヶ月も前から航空券の手配を頼んでいたのにだまされたような気分になりました。気を取り直して予定外の北京一泊を決意、李さんにホテルを手配してもらいました。タクシー2台に分乗して寄贈用の無線機材を積んで北京市内へ。新築間近のホテルが今晩の宿、中国では工事中でも一部の部屋を使って営業するのが珍しくなく、同行の二人は変な宿に泊められて納得しないまま内装工事の廊下を通り抜けて客室へ入りました。

翌朝、気を取り直して北京空港へ再びタクシーを走らせました。今日はなんとしてでも航空券をゲットしなくてはならない。無線機材を持ってうろうろするわけに行かないし、北京で足止めを食らっている分だけ日程が窮屈になってくるから李さんを励ましてチケット窓口に送り出す。しばらくして笑みを浮かべながら戻ってきて「午後の便が取れた!」これでハルビンに行けると気が緩みそうになるが、無線機の機内持ち込みの関門が待ち受けているので油断できない。結果的には国内線ということでお構いなしに。

アクシデントに見舞われる

飛行機は北京空港を発って2時間ほどで真っ暗なハルピン空港に着陸しました。H君が手荷物をカートにくくりつけているときに思いがけない事故が発生しました。荷物をくくりつけるゴムひもが弾いてかぎ状の金具がメガネを直撃、レンズが割れて目に当たったからたまらない、破片が目に入って瞳孔を傷つけないように見開いたまま「破片が入っていないか」覗き込んでも客室の薄暗い照明の中では確認のしようがない。乗務員から市内の眼科に連絡してもらい迎えの車で駆けつけることにした。その間、瞬きをしないでがんばったH君の強靭な精神力に感嘆しながら眼科に到着。心配された破片は認められないという診察に一安心。その足でメガネ屋さんに立ち寄り新しいメガネを手配しました。

零下30℃の世界へ

現地の地名"哈爾濱"をハルビンと読む。ハルビンは中国の北端に位置する黒竜江省の省都で東北地方の政治、経済、科学技術、文化、交通の中心。北京から東北に約1,100キロ、北緯44°04'は北海道の宗谷岬の先、サハリン(樺太)の緯度に同じ。人口はハルビン市区で320万人、夏の気温は東南部で23℃、最低気温が-20℃から-30℃に達するので冬の旅行に適さないと言われています。

そんな中、なぜ出かけるようになったのでしょうか、今になって考えてみてもよくわかりませんが、ハルビン工業大学・学生会の強い希望に添う形で出かけたのに違いなく、冬の名物"氷祭り"(現地では氷雪節)を見たかったのも事実でした。1月5日からおおよそ一ヶ月間続く市内の「氷灯遊園会」と松花江(市内を流れる川の名)の「雪上楽園」を見たい、マイナス20℃の世界を体験したいというのが3人の一致した考えでした。

ハルビン工業大学・学生会に招かれて

"哈爾濱工業大学"が正式名称、東北地方随一の格式を誇る大学で、清華大学、上海交通大学、そして哈爾濱工業大学(以下、ハルビン工業大学と記載します)の順だと書記から教えられました。この説には異論があるかもしれません。とにかく高いレベルの大学なのでしょう。中国全土から秀才が集まっているということで、いい大学であることはよくわかりました。私たちは大学の"学生会館"にアマチュア無線局を開設するために学生会から招かれて出かけました。

同行のKさんはハルビン生まれで幼少期を過ごし、昭和20年(1945)引き揚げ途中に肉親を失い筆舌に尽くせない苦労の末に帰国された経歴の持ち主です。いわば望郷の念に駆られての訪問と言えなくもありません。H君と私は1909年10月26日のハルビン駅での伊藤博文・暗殺事件、1945年以前の東北地方の特殊な状況と森村誠一の小説「悪魔の飽食」を読み漁った知識からある種の緊張感を抱きながらハルビンを訪問しました。

BY2HITを運用するKさん

コールサインはBY2HIT

学生会の書記、Xさんは聡明で物静かな青年、この書記が美人秘書を伴ってわれわれの前に現れ、どこへ行くのにも親切にアシストしてくれました。「監視?」と疑ったりもしましたが態度は好意に満ちたもので安心して行動を任せられました。黒竜江省ラジオスポーツ協会(BY2AA)からコールサインはBY2HITと連絡を受けていましたので、事前にコールサインプレートを作って持参していました。サフィックスのHITはHarubin Industry Technologyの頭文字になります。オペレーターは数人いるようで入れ替わり立ち代りシャックに出入りして興味深そうに機材を眺めては、作業を手伝ってくれました。

BY2HITのQSLカード

BY2AAのQSLカード

100ワットのトランシーバーとSSTVアダプター、コンピューターなどを机の上に広げて各部を接続しました。同時進行の形で屋上にマルチバンドダイポールアンテナ(SAGANT)を上げて同軸ケーブルを室内まで引き込む作業を行いました。屋外の凍てつく寒さが作業をしばしば中断させ、室内に戻り体を温めてから屋外に出て作業を繰り返しました。5D-2V同軸ケーブル20mを室内まで引き込み、アンテナアナライザAZ1(DELICA)を接続して各バンドのSWRを測定、2時間ほどで手早く作業を終えました。試験運用は北京のBY1PK、上海のBY4ALCなどとRS59の交信を済ませてBY4HITの開局式に臨みました。

幻想的な氷祭り

帰国の前日、BY2HITの開局式を済ませて無線局の引渡しを終えました。学生たちが交信を楽しんでいる様子を眺める喜びと同時に今回の任務がすべて終わり、一抹の寂しさを感じているところに学生会の書記が氷祭りに行こうと誘ってくれました。 夜になって書記が美人秘書を伴い市内の兆麟公園に案内してくれました。彩色された氷が赤や青、黄色に光を放ち妖しい雰囲気をかもし出しています。原色がどぎつく感じたのは初めのうちだけ、目が慣れると温かな印象に変わりました。

氷で作られた建造物や動物などの彫像の中を進むとひときわ大きな氷の滑り台の前に出ました。書記が「全員がつながって滑ろう」と提案しました。先頭は美人秘書、その後ろになぜか私が指名され、続いてKさん、H君、しんがりは書記の5人が前の人のお腹辺りを両手でしっかり抱くように連結して、書記の「GO!」の合図のもとに喚声を上げながら彩色氷がきらめく中を一気に滑り降りました。

氷祭りを背景に筆者

松花江の近くのホテルで休息

松花江は全長1840km、中国で5番目に長い川。北朝鮮国境に近い長白山の天池から流れ出て、アムール川に合流し日本海に至る大河です。この時期、市内を流れる松花江は完全に凍結して"雪上楽園"が開かれると聞いていました。ハルビンを離れる日、一行3人は松花江の近くのホテルに立ち寄り休息を取ることにしました。

私とH君は寒さから来る極度の疲労感から不覚にも寝込んでしまったが、この間Kさんは休むことなく凍結した松花江の見物に出かけて「凍った川の上をトラックが行き交っている」と語ってくれました。やはりハルビン生れの血が騒ぐのでしょうか。一刻を惜しむかのように周りの景色を脳裏に焼き付けているように見えました。

あとがき

「持参の寒暖計が窓の外に出しておいたら壊れた!」とKさんがマイナス20℃まで測れる寒暖計を見せてくれました。湿度が低く雪がさらさらした感じ。それでいて寒さが厳しくマイナス20℃~30℃の世界では体が緊張して知らぬ間に疲労が蓄積していました。「メガネ直撃事件」以外は事故に遭うこともなくBY2HITの開設とオペレーターの訓練が無事に終わってホッとしました。無線局建設援助の旅はいつも観光抜きが常識になっていて、いつもアマチュア無線を最優先に予定を組んできましたから観光にまでなかなか目が届きません。今は新潟からハルビンへ直行便が出ていて行きやすくなりましたので、いつの日か観光に出かけてみたいと思っています。