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No.51 中国福利会少年宮BY4ALC 鄭正文先生との出会い
話題作を上映する岩波ホール(千代田区神保町)に足を運んでみて、観客のほとんどが女性で占められていることに驚きながら、「宋家の3姉妹」を鑑賞しました。映画は19世紀初頭の中国で裕福な宣教師の家庭に生まれ育った3人の姉妹が、大富豪・孔祥熙(コウ・ショウキ)の妻となる長女・宋靄齢(アイレイ)と孫文の妻となる次女・宋慶齢(ケイレイ)、そして蒋介石夫人となる宋美齢(ビレイ)、それぞれ別々の道を歩み、時に反発し、時にかばい合う姉妹の姿を通し、激動の中国近代史が克明に描かれています。
ここでなぜ宋家の三姉妹なのかと言いますと、宋慶齢 (1913~1981)が創設した「中国福利会」についての関わりを書いてみたいと思うからです。国家名誉主席の称号を持つ宋慶齢女士(日本では女史)との関係とは恐れ多いのですが、同女士が創った施設のひとつ「中国福利会少年宮」とのお付き合いが、アマチュア無線を通じて始まったからに他なりません。
宋慶齢の生涯を描いた「WOMAN IN WORLD HISTORY Soong Ching Ling 」
チェンさんとの出会い
上海の親しい友人の一人にチェンさんこと、鄭正文(ツェンツェンウェン)先生との出会いが事の始まりになります。1989年梅雨の頃、いったんは床に就いたものの眠れなくて起き上がりHFトランシーバーの電源スイッチをオンにしました。14.200MHz付近からダイヤルを回して14.250MHz付近で強い信号をキャッチしました。英語の会話に時折、中国語が混じる楽しそうなおしゃべりが続いている様子。聞き耳を立てているとコールサインは上海のBY4ALCと和歌山のJR3×××とわかりました。
BY4ALCのオペレーターはチェンと呼ばれていました。英語の発音に訛りがなく教師らしいとわかりました。話が面白いのでワッチを続けていると、どうやら子供たちを引率して横浜の国際会議に参加するために来日するとわかりました。「横浜なら都内から車で1時間、チェンさんに会って中国のアマチュア無線事情をインタビューしてみたい」と閃きました。何が幸いするかわからないものです。
1989年当時の中国は海外の華人や日本のアマチュアによる機材の援助によりクラブ局が全国各地にでき始めた頃ですから、開局したくても無線設備がそろわないままアマチュア無線は一部のエリートにしか触れられないものでした。アマチュア無線が政府から積極的に奨励されても無線機が手に入らない状況がしばらく続いていましたから、全国の少年宮はツテを頼りアマチュア無線局の設置に奔走するようになったのもこの頃でした。
Chenの署名が見えるBZ4CWのQSLカード
横浜のサテライトホテル
横浜のどこかの施設で開く国際会議なら横浜市役所に聞くに限ると、広報課に電話を入れて尋ねてみました。国際会議は「世界こども会議」というような名称で子供同士の交流が行われると聞き込み、会場と宿泊先は「サテライトホテル」とわかりました。編集スタッフのH君と車を走らせて横浜へ。カーナビのナビゲーションで難なくホテルに到着。市役所の担当者に取材に来たと告げて歓迎パーティーの会場に入れていただきました。
各国の子どもたちが引率の大人と一塊になって丸いテーブルを囲んでいました。もちろんチェンさんの顔を知るはずもありません。中国人らしいグループを探してリーダーらしい男性に「あなたはBY4ALCですか?」と英語で話しかけました。「イエス、それであなたは?」と訝しそうな顔がこちらを見つめます。そこで名刺を差し出してコールサインと名前、取材目的を告げて、さらに「深夜のラグチュー」をワッチして来日を知ったと付け加えると破顔一笑、子どもたちに紹介されてすっかり打ち解けました。
「パーティーはもうすぐ終わるから、インタビューは自分の部屋で受けましょう」と快諾。不慣れな英語によるインタビューは紆余曲折あったものの、英語の教師でもあるというチェンさんに助けられてなんとか記事にまとめることができました。このときの記事がMHの「最新中国アマチュア無線事情」としてトップを飾り、当時ベールに包まれて全くわからなかった中国のアマチュア無線制度が明らかになりました。
BY4ALCの訪問と交流
それから2年が過ぎてチェンさんとの出会いが記憶から薄れてきた頃、楊浦区ラジオスポーツ協会の招きで上海を訪れていました。友人2人(JA1CVF、JA3UB)と機材を持ち寄り無線局BY4BAの設置とオペレーターの養成に取り組みました。開局式では楊浦区の幹部と一緒に上海ラジオスポーツ協会の徐儒(シュル)秘書長が来賓として出席されました。
上海で開かれたSSTVコンベンションで司会するチェンさん(鄭正文)
開局式が終わり歓談に移る頃、「BY4ALCが閉鎖の危機に陥っている。これから訪問してもらえないか」シュル先生が深刻な話を持ち出してきました。BY4ALCといえばあのチェンさんのクラブ局に違いない。「無線機の援助要請だな」と直感。チェンさんとの再会が巡ってきたことを喜びながら中国福利会少年宮を訪問することにしました。
「BY4AAから借りているHFトランシーバーを返さなくてはならない」返すと無線機がないので「無線室のドアを閉めなくてはならない」という切実なものでした。話を聞きながらシャックを眺めるとアメリカ人から寄贈されたというモービル用のATLASトランシーバーが目に付きましたが、ダイヤルにガタがあり動作が不安定、初心者の操作に適さない印象でした。さらに日ごろの活動をチェックしてみると、子どもたちにアマチュア無線の基礎知識を熱心に教えていること、英会話の授業を熱心に進めていることなどがわかり、友人二人と相談の上、無線機の寄贈と技術指導を快諾することになりました。
SSTVコンベンション(1999年10月)でSSTV愛好者の皆さん。前列左からJA4HM、BY4ALC、BD4AD、BA4AD、背後にJA7QM
初のカラーSSTVを運用
その後、BY4ALCは上海でも指折りのアクティブなクラブ局に成長し、JA1XVY平野さん一行による"カラーSSTV"の運用が日本のSSTV愛好家を沸かせました。これは中国ではBY4AAのモノクロSSTVに次ぐ2番目の運用となりました。カラーSSTVなら初めての快挙に数えられ、中国でSSTVを流行らす結果となったのは紛れもない事実と語り継がれています。
こうして少年宮と交流を重ねるに従い中国福利会の幹部にたびたびお目にかかるうちに宋慶齢女士に関する資料に触れる機会が多くなり、「宋家の墓」や「孫中山故居」を訪ねていよいよ関心を高めるようになりました。中でも「宋慶齢故居」では門の内側に銃を持った人民解放軍の兵士が立っており、中華人民共和国名誉主席の威厳をいやが上にも感じ取りました。宋慶齢基金会の幹部の案内で観光客に未公開の2階のリビングに通されて宋慶齢女士が毛沢東、周恩来と談話した由緒深い同じ場所に立ち感慨もひとしおでした。
宋慶齢故居
あとがき
14メガで深夜のワッチから始まったBY4ALCとの交流は親密なものとなり、チェンさんと蘇州、杭州、南京など1週間の旅に出かけて英語漬けの毎日は、後に大きな自信につながりました。チェンさんはいま中国福利会連絡処の処長の任にあり、同会の国際的な窓口業務一切を引き受けて活躍しておられます。BY4ALCは後任に恵まれず現在、休局を余儀なくされているのが残念でなりません。またチェンさんとの出会いの場所となった横浜の「サテライトホテル」が廃業していまはなくさびしい限りです。
中国福利会少年宮BY4ALCのQSLカード