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No.31 私の宝物 JA1FG 梶井さんの直筆原稿
昭和56年(1981)4月、ちょうどアマチュア無線人気が頂点を極めた頃、JARLの役職から退いて研究三昧の梶井謙一さん(JA1FG)から出版社の雑誌編集部に、「計算に強くなって差をつけよう」というタイトルの原稿が送られてきました。 原稿を一読して、スーパーOMから後輩へのメッセージが込められていると直感して掲載を即座に決断しました。当時の直筆原稿が手元に残っていますので冒頭部分を抜書きしてお目にかけたいと思います。
後輩へのメッセージ
『アマチュア無線にも「ソフトウェア」「ハードウェア」があって、DX、JCC、あるいはフォックスハントは前者、TX、RXあるいはアンテナ談義は後者ということになりましょう。そして後者すなわち「ハードウェア」には、必ずといってよい位に量のことがついて回ります。周波数が7MHzとかインピーダンスは50Ωとか、話が弾んでくると、頭のなかでクルクル暗算でもしない限り、話から取残されてしまいます。』という書き出しで始まり、計算に強くなると、技術問題を楽に解決することができ、他人との差が自分で分かるようになり、アマチュア無線がさらに面白くなると説いています。
梶井さんは、誰もが知っているように日本のアマチュア無線の草分けであり、多くのアマチュアが尊敬してやまないスーパーOMでありました。大正14年(1925)秋、梶井謙一さん(当時大阪市)がJAZZ、笠原功一さん(当時神戸市)がJFMTのコールサインで、波長300m、電信のQSOに成功しました。通信した距離は20キロ。
梶井さんが無類のジャズ好きから「JAZZ」と決め、笠原さんはアメリカ漫画の主人公、ジェフとマットから「JFMT」を考え付いたといわれています。アマチュア無線を計画してから1年余、日本で最初のアマチュア無線のQSOがこのようにして行われました。
梶井さんと笠原さんは、その後JARL創立から昭和16年(1941)まで役員を務められました。梶井さんはJARLが法人化された昭和34年(1959)から42年(1967)まで会長職を務められましたし、笠原さんはソニーの前身、東京通信工業に入り井深大さんら創業者達と共に今日のSONYの礎となったのはあまりにも有名な話です。
「計算に強くなって差をつけよう」の続編を昭和56年5月18日と同7月27日に送ってこられました。添えられた図面に欠番を見つけて問合せをしましたところ、新潟総会から帰宅して体調を崩した様子とともに返信添えられていました。
在りし日の梶井さん(書斎兼シャックにて)
梶井さんからの私信
お暑うございます。さて、小生 新潟総会から帰って数日経過した5月28日夜 突然吐いて苦しみ そのまま床についてしまいました。風邪にかかっていたことに 気がつかないということらしいのですが、全然 兆候がなく、気が付いたときは 相当 衰弱していたということです。 隣家が医者(ただし産婦人科)で毎日点滴を受け 6月いっぱいは床の中 7月に入ってようやく起き上がっての生活をしています。原稿を書こうとしても うまくゆかず ここに ようやく第3図をお送りします。第4図は引き続き手を着けており 今月末くらいまでに お届けしたい所存です。しかし、アマチュア無線 昔話の方までは 今のところ手が出ません。書けるようになったら ご連絡します。
56.7.27
梶井 謙一
梶井さんからの私信
当時、梶井さんに「回顧録」のご執筆をお願いしていましたが、果たされないまま、11月29日に「線番の話」 (JA6PL井地さんと連名)の原稿が送られてきて、これが絶筆になったように記憶しています。
昭和60年(1985)12月7日、梶井さんの訃報を聞いて埼玉県入間郡鶴ヶ島町のご自宅を弔問に訪れました。スーパーOMの梶井さんの死を悼んでアマチュアが大勢訪れていました。シャック兼工作室に入れていただきました。机の上にハンダごてやラジオペンチ、ドライバーなどが使われていたまま、実験途中の機器とともに置かれていました。今すぐにでも戻られて測定が始まるような臨場感のなかで梶井さんの足跡を偲びました。
シャックを拝見した人々は、亡くなる直前まで生涯アマチュア無線家を貫抜いた梶井さんから深い感銘を受けた様子で呆然と立ち尽くしていました。その光景はいまだに忘れることはありません。以来、科学する心を教えられた私は、次第に基礎技術を重視するように変っていきました。
社団法人・JARLの生みの親、初代会長のJA1FG/梶井謙一さんが『もっと本来のアマチュア無線家らしくやってくださいよ、きっとこれからもうまくいくのに・・・』と、電離層のもっともっと彼方から一生懸命に私達へ向かってメッセージを送信し続けておられるように感じてなりません。
絶筆となった「線番の話」梶井さんの直筆原稿