中国を代表する文豪、魯迅(1881-1936)の一人息子、周海嬰(Zhou Hai ying)ヂョウハイインさんが自他共に認めるアマチュア無線好きということを日本ではあまり知られていません。コールサインはBA1CY、中国のオールドタイマーを代表する一人としてBA・BYネット(14.180MHz)でBA1CYの声を聞くことのできるアクティブなお方です。

BA1CYのQSLカード

はじめにお父上の魯迅を語らなければなりません。魯迅は日本にも親しまれる作家で"阿Q正伝"や"狂人日記"※1 など改革を意識した多数の短編小説を発表して、暗黒時代の中国の革命家達を勇気付けたと言われ大いなる尊敬を集めています。上海の虹口公園内に魯迅の墓と共に出身地の紹興の民家を模した簡素な2階建ての魯迅紀念館があり、直筆の原稿や遺品などを展示しています。墓前には本を手にした魯迅の坐像を見ることができます。ほかに北京の故居が記念館として多くの来場者を集めていると周海嬰さんから聞きました。周さんは「この記念館の一隅をアマチュア無線のクラブ局にしたい」と希望しながら、いまだに許可が下りないと嘆いておられました。

魯迅作、竹内 好訳、「阿Q正伝・狂人日記 他12篇」岩波文庫

文豪・魯迅は日本読みでロジン、中国読みはルーシンといい、1898年、江南水師学堂※2 に入学し、翌年、改めて江南陸師学堂附設の礦務鉄路学堂に入学しなおし、1902年、卒業と同時に官費生として日本へ留学、東京で予備教育を受けて1904年に仙台医学専門学校に入学しました。ここで小説にもなった生涯の恩師「藤野先生」に出会い懸命に学業にいそしむも次第に疲弊した祖国に思いを馳せて、このまま医学をおさめても中国の近代化に貢献できないと思いつめるようになり、ペンで革命に寄与したいと作家に転進したと言われています。
周海嬰さんはアマチュア無線好き!

周さんはCRSA(中国ラジオスポーツ協会)の顧問を歴任されました。1940年代開局のオールドタイマーとして中国全土でもっとも有名なアマチュア無線家として知られています。名刺の肩書きは中国人民政治協商会議全国委員会委員(=日本の参議院議員に似た組織)、そして広播電影電視部とあります。来日時にクルマのキャブレーター洗浄剤を探しておられましたので、調達のお手伝いをしたことがありますが、早くから自家用車を持っておられましたので経済発展の著しい今と違い特別なお立場の人という印象でした。

魯迅の一人息子が文学とは無縁のまま、私人としてはクレイジーといってもいいくらいのアマチュア無線大好き人間の周海嬰さんです。かつて中国はクラブ局による運用しか認めておらず、アマチュア無線の開放から10年余を経て個人局の開設が許された経緯があります。個人局の開設を認めるよう政府に働きかけたのは周海嬰さんをはじめとする1940年代に免許を取ったオールドタイマーたちといわれています。

周海嬰さんは(ex C1CY、C1CYC)BZ1CYを経てBA1CYに至ります。北京からオンエアするほか、上海の別宅からもICOMの小型HF帯トランシーバーの傑作、IC-706MKⅡGとダイポールアンテナでBA・BYネットにチェックインしています。周さんは「よく子供や女性に間違われます」と苦笑しておられますが、そのボイスは甲高く聞こえ了解度の向上に役立っているといい、安定した性能とコンパクトなIC-706MKⅡGトランシーバーが大のお気に入りの様子でした。
笠原さんを交えた交遊

周さんが来日されるとメディアが放っておきません。"魯迅の一人息子"のブランドはかなりなもので、周さんはお嬢さんと(武蔵野市在住)共に週刊誌のグラビアを飾ることがたびたびありました。お嬢さんが日本人男性と結婚、双子の孫娘が生まれた際には、夫妻共々来日されてしばらく武蔵野市に滞在されたことがあります。

このとき、日本で無線操作のできない周海嬰さんをお慰めするために静岡県伊東温泉にお招きしたことがあります。当時、JARL国際課長を退いて悠悠自適の笠原 豊さん(ex JA1CLN)にも加わっていただきました。笠原さんは筆者と共に上海のオールドタイマーのグループ、上海電子学会(BY4AOM)の名誉会員でしたから周さんとは同じお仲間関係にありました。英語の達人、笠原さんはあくなき好奇心から中国語の会話を勉強しておられましたので周さんとの会話が弾むに違いないと期待しました。

伊東温泉への小旅行 左からJA1CVF、JA1FUY、JA1CLN、BA1CY、JJ1HKS

伊東温泉には無線機材を持参してJA1ZNG(当時、モービルハム・アマチュア無線クラブ、現、QTC-JAPANハムクラブ)を移動、集まった皆さんでCWやSSB、スロースキャンテレビ(SSTV)を楽しみました。周さんは傍で羨ましそうに無線操作を眺めているばかりでした。日本の法律では無線の運用ができませんのでがまんして頂くしかありません。日本の有資格者が中国を訪問して所定の手続きを済ませればクラブ局の運用ができますので、中国人が日本で無線操作ができないのは片手落ち、肩身の狭い思いに駆られました。

笠原さんは、このとき重い病で闘病中でしたが、小康状態を保っておられ医師から外出の許可が出ましたので、周さんとの交遊をお勧めして保養を兼ねた温泉旅行に出かけた経緯があります。夕食は畳の部屋で和食のコースを選びました。中国語、日本語、英語によるアマチュアならではのコミュニケーションを楽しんだのは言うまでもありません。

くつろぎのひと時は、笠原さん得意のマジックが始まりました。かつてニュージーランドのオークランドで開かれたIARU第3地域総会のさようならパーティーで華麗なマジックの演技と達者なジョークで居合わせたアジア・オセアニア、英米のアマチュア代表から拍手喝采を浴びました。今夜は親しい友人を相手に鮮やかな手つきで紐抜け、カード捌きなど素人離れした技を披露して魅了されました。いたずらっぽい目つきでにこやかにマジックを繰り広げる姿が瞼に焼き付いて忘れられません。それから半年、笠原さんは闘病の甲斐なく帰らぬ人となったのですから運命の過酷な定めとしか言いようがありません。
中国のオールドタイマー

上海電子学会の代表・沈明綱さん(BA4AB、ex C1MK)から笠原さんと筆者を名誉会員に推挙すると提案があり、満場一致で決定された光景を昨日のように思い出すことができます。1991年、BZ4AA、BZ4AC、BZ4AD、BZ4CA、BZ4CH・・・が参加する中、個人局が蘇る前夜の歴史的なミーティングでもありました。この後しばらくしてプリフィックスがBZからBAに変わり本格的な個人局の誕生となりました。沈明綱さん(BA4AB)と許毓嘉さん(BA4CH)らBY4AOHの幹部が北京の周海嬰さんと連携して、個人局の開設を強く推進しておられたと後になって知ることとなります。

魯迅

2002年11月5日朝日新聞の朝刊4面に、「指導部人事、調整大詰め」の見出しと共に江沢民主席と並ぶ李瑞環・常務委員が中国人民政治協商会議主席という記事を見つけました。このことから中国人民政治協商会議全国委員会委員がどのようなポジションなのかを認識すると共に、中国アマチュア無線界の発展に大きく関わった理由もまた理解できたような気がしました。そして日本のアマチュア無線家と交流を深めた周海嬰さんは、父・魯迅共に日本と中国の掛け橋となられたこともまた、本稿をまとめてみて改めて分かった事実でありました。


※1 「阿Q正伝・狂人日記」魯 迅作 竹内 好訳 岩波文庫
※2 当時は科挙との混同を避けて学校を学堂と称した。