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No.83 トルコの世界遺産巡り カッパドキアとカイマクル地下都市
ヨーロッパの東端に位置し、日本の約2倍の面積に人口約6700万人、黒海と地中海に囲まれ、イラクとシリアに国境を接するトルコ共和国を訪ねました。トルコはEU加盟を目指していますが、イスタンブールの東側、国土のほとんどがアジア大陸側にあるところからトルコはヨーロッパではないと主張する国があるため、EU入りは先になりそうな状況にあります。しかし、現実には首都アンカラからイスタンブールを経由してギリシア、ブルガリア方面に通じた高速道路が人の交流や物流を活発にしているのを目の当たりにして、EU加盟も遠くないという印象を受けました。
トルコ共和国のプリフィックスはTA〜TC(by Internet Ham Atlas)
トルコには世界遺産が9つあり、5つ星ホテルを泊まりながら、古代遺跡を巡るツアーが高齢者世代に人気を得ています。中でも中央アナトリア地方のカッパドキアとカイマクルの地下都市は特別で、大いなる好奇心をそそられます。トルコ最大の都市イスタンブールには、アヤソフィア大聖堂やトプカプ宮殿など見どころがたくさんあり、オスマン・トルコの繁栄を見たいという思いと、もうひとつの計画がありました。それは強力な電波に乗せてSSTVの画像を日本に送り込んでくる、イスタンブール市内のTA1BM、Ismail Karadasさんを訪ねてアイボールQSOをしたいという計画もありました。
[親日的トルコのイメージ]
総店舗数が約5000といわれるグランド・バザールを歩いていると、「こんにちは」と日本語で声をかけられ、チャイ(紅茶)をすすめられます。はじめはみやげ物を売りつけるお愛想と思って警戒していると、狭い路地の曲がり角でも車が急に停止し、ドライバーが窓から顔を出して「こんにちは」「さようなら」と日本語を連発、笑顔を振りまいて行きました。トルコの人々が親日的と聞いていたが、これほどとは思いませんでした。そこで、親日の根源について探ってみることにしました。
観光客に人気のスポット グランド・バザール
1890年(明治23年)9月16日、オスマン帝国(現トルコ)の軍艦「エルトゥールル号」が和歌山県串本沖・紀伊大島の樫野先東方海上で遭難した事件があった。折からの台風の強い風にあおられて岩礁に激突、そして座礁、機関部に浸水、水蒸気爆発を起こして沈没した。乗務員587名の死亡、行方不明を出す中、大島村(現在の串本町)樫野の住民が総出で救助と生存者を介抱、69名を保護。同年10月5日、日本海軍の「比叡」と「金剛」の2艘により生存者を乗せて東京湾・品川港を出航、1891年1月2日、オスマン帝国の首都イスタンブールに送り届けられた。
1980年のイラン・イラク戦争のときに、イランから脱出できずにいた日本人を救うためにトルコ政府は2機の救援機を飛ばして、「エルトゥールル号」の恩を返そうと、イランに滞在する日本人の救出に尽力してくれた。ほかにも (1)宿敵ロシアを日本が破った。(2)トルコの憲法は日本の明治憲法を基に作った。(3)トルコ人と日本人が中央アジアから東西に分かれて移住して行った同じアジア系という同族意識、などを親日の理由に挙げています。
次にトルコの世界遺産 全9箇所のうちトロイ、パレッカム、カッパドキア、カイマクルの地下都市、そして、エフェス都市遺跡を巡る旅に出ました。イスタンブールを出発して6時間半、約345kmの距離をバスに揺られてトロイの古代遺跡にやってきました。
[トロイの古代遺跡]
1998年登録の文化遺産。映画「トロイの木馬」で一躍有名になった遺跡。トロイ(トロイアともいう)を陥落させた巨大な木馬が有名。退却するギリシア兵が残した木馬を謀(はかりごと)と知らずに城内に引き入れて、木馬の中に潜んでいた兵の夜襲を受けて陥落。1870年、ドイツのシュリーマンがギリシア神話の伝説上の都市、トロイの発掘に成功した。集落ができたのは紀元前3千年ごろ、繁栄と没落を繰り返し400年の間に9つの都市層が重なり合った。1975年木馬を復元して展示、当時をしのぶことができたが、映画の「トロイの木馬」とは別物。因みに紀元前3千年は、縄文時代前期に相当する。
復元されたトロイの木馬
[エフェス都市遺跡]
紀元前11世紀、イオニア人が都市国家を建設、肥沃な土地と交易により発展したが、次第に港が土砂で埋まり、疫病が蔓延して都市機能が低下した。紀元前133年、ローマ帝国の支配下で数々の国際会議がエフェスで開かれ大いに繁栄したという。1400人収容の音楽堂、ドミティアン神殿、2万4千人収容の大劇場、大理石の柱と壁で造られたセルスス図書館。当時、12万冊の蔵書を誇るトルコ最大級の図書館であった。遺跡の発掘は、いまも続けられていて全体の10%に過ぎないという。
エフェス都市遺跡のセルスス図書館
2万4000人収容の大劇場(エフェス都市遺跡)
[パムッカレ]
1988年登録の文化遺産(ヒエラポリス、パムッカレ)。自然が作り上げた真っ白な石灰棚が広がる不思議な世界に足を踏み入れた。高さ100mに幅3kmの石灰棚があり、ちょろちょろと温泉が湧き出ていて、その中を観光客が裸足になって歩く。湯の温度は低めだが、足湯の感覚で気持ちが良い。パムッカレに行くのはセルチュクからバスで3時間。
[カッパドキアの岩窟群]
1985年登録の文化遺産(ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群)。イスタンブールからギョレメまでバスで約11時間、トルコの内陸部に位置する。トルコを訪ねた第一の理由がカッパドキアのキノコ岩と洞窟住居に興味を持ったから。火山灰と溶岩が積み重なって高度の異なる砂岩となり、長い年月をかけて雨と風で浸食されて不思議なカタチの岩が生まれた。さまざまな形の奇岩、イマジネーションの谷「デヴレント」、絵葉書で見かける「妖精の煙突」バシャバー、修道士がハトを飼っていた「ハトの谷」などが見どころ。
カッパドキアのキノコ岩
カッパドキアのハトの谷
カイマクルの地下都市は地下8階の巨大な地下都市。キリスト教がアラブ人の迫害から逃れるために作られた。台所や食糧庫、ワイナリー、教会、家族ごとの部屋が完備。地下都市に入ると通路の高さは160〜170cm、立って歩くのはかなり窮屈な思いがしたから、住人の体格は小柄だったのかもしれない。地下都市の断面をイラストで見ると地下都市というよりは蟻の巣穴にみえてしまう。カッパドキアには現在36箇所の地下都市が確認されている。昼食はカッパドキアの洞くつレストランALTINOGAKでマス料理をいただいた。
カイマクルの地下都市
[イスタンブール歴史地域]
1985年登録の文化遺産(トプカプ宮殿、アヤソフィアなど)。トプカプ宮殿(総面積70万平方メートル)は、15〜19世紀にかけてオスマン帝国の中心であった。トプは大砲、カプは門を意味する。宮殿は君主・スルタンの居城、行政府でもあった。スルタンの大広間、果実の間、スルタンの浴室、中国・日本陶磁器展示室、ヨーロッパ陶器・銀製品展示室、厨房跡、そして宝物館を見学できるが、どこも観光客で埋め尽くされていた。宝物館の一部は、東京都美術館で「トプカプ宮殿至宝展」(8月1日〜9月24日)で見ることができる。
アヤソフィアは360年に建てられ、537年に完成したギリシア正教の聖堂だったが、ビザンチン帝国が1453年、オスマン・トルコに征服され、イスラム教のモスクへと変わりアヤソフィアと呼ばれるようになった。1934年、博物館として公開されるようになって、漆喰で塗り固められていたモザイクが見られるようになった。聖母子のモザイク、ミフラープ(メッカの方角を示す礼拝用の壁のくぼみ)、キリストと女帝ゾエ夫妻のモザイク、聖母子と皇帝家族のモザイク、デイーシス(ビザンチン美術の最高傑作)などが有名。
イスタンブールを代表するブルーモスク
[あとがき]
トルコの歴史的な世界遺産を巡る旅となりました。同時に文化とは何か、5千年前のトロイの遺跡に立って、悠久の人類の営みに感無量。紀元前11世紀、エフェス都市遺跡の文化の高さにも驚かされました。映画「スリーハンドレッド」スパルタ王レオニダスとペルシア帝国の戦いは、「テルモピュライの戦い」がモデルと言うことで、あの辺りが舞台に違いないと想像をたくましくしています。「トプカプ宮殿至宝展」の開催といい、映画「スリーハンドレッド」の上映が重なり、トルコに注目が集まる年となりました。イスタンブールでは「ボスフォラス海峡クルーズ」に出かけて時間切れ、TA1BAとのアイボールQSOは残念ながら実現しませんでした。
参考文献:
ウィキペディア フリー百科事典「エルトゥールル号遭難事件」
るるぶ情報版B12「トルコ」JTBパブリッシング
「文明の発祥の地 カッパドキア」Omer Demir