OnlineとーきんぐNo.63「ex J2CG林太郎さんが遺したQRA BOOK(1932年)※」で宮井宗一郎(J3DE)氏「QRA BOOK」No.2を紹介しました。今回はJ2CG(1931-1979)が遺した一枚のはがき[ARRL会員満了通知書(EXPIRATION NOTICE)]から1930年代にタイムスリップして、アマチュア無線の草創期を検証してみました。

※QRA: 貴局名は何ですか。[QRA BOOK]は局名録。

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1936年12月末日ARRL会員満了通知書(EXPIRATION NOTICE)

QST購読会員

1936年10月某日、QSTの購読満了通知書が長野県諏訪郡岡谷の林宅に届きました。宛名は「Taro Hayasi 3421 Okaya Suwa-Gun Nagano Ken, Japan」、そして2枚の切手(1セントと2セント)に「HARTFORD OCT 21 8 PM 1936」の消印があります。1931年の1ドルは5円と換算して3セントは15銭、コーヒー1杯の値段と同じ。QSTの国外購読料$3.00は円換算で15円、当時の教員の初任給が50円とすると、単純な比較が難しいとしても現代の初任給(20万円)の約3分の1を充てたことになります。

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ARRL会員満了通知書の宛名面

消印の[ハートフォード]にも注目しました。ハートフォードはアメリカ東海岸、コネチカット州の中央部に位置する州都で人口約13万人、都市圏人口約120万人、ニューイントンはその都市圏内に入ります。ARRLのオフィス(225 Main Street Newington, CT)が1914年の創設から97年間変わらず、ARRLの創設者W1AWマキシム氏を記念したレンガ造りの局舎を丁寧に保存し、最新機材をそろえて現用していることにも畏敬の念を抱きます。

QSTの最新号(2011年2月号)がVolume 95 Number 2ですから通巻は95巻×12号=1140 + 2=1142号となり、100周年を間近にしたARRLの公式ジャーナル(雑誌)と言えましょう。因みにARRL初代プレジデントのマキシム氏の任期(1914〜1936年)と林氏がQSTを読み始めた時期と重なることから1936年代のARRLの活動や部品情報、製作技術を知る日本人ハムの存在を示しています。

1931年(昭和6年)9月15日林 太郎氏(1905年7月5日生)は長野県諏訪郡平野村岡谷市3421にJ2CGを開局。同年4月3日、名古屋市中村公園記念館で開催のJARL第1回全国大会に参加した。JARL NEWS第17号(昭和6年5月号)には「同大会は盟員31名、来賓を加えた30数名にて盛大に開会、八木秀次教授(東北大学)の講演、盟員による研究発表、自己紹介と続き、会場前で記念撮影。翌4日は日本ライン遊覧、5日は名古屋城及び依佐美對欧送信所を見学して散会。」の記述がある。

[QRA BOOK]No.2(発行:宮井宗一郎氏、J3DE)にはJ2CGの開局日が1931年9月15日、JARL第1回全国大会の開催日が1931年4月3日、一見して開局前の参加に見えて矛盾するが、記述の不備なのかあるいは予備免許を受けていたのか不明。開局時の年齢は27歳、アマチュア無線にかける情熱と技術的な興味が頂点に達していたと想像できる。QRA BOOKの職業欄に生糸製造業、自宅電話(岡谷108)の記録がある。

J2CGの送信機

東京都・調布市の電気通信大学に旧・歴史資料館を訪ねたときにJ2CG林太郎氏の[水晶送信機と自作振動子]を収蔵品から見つけて撮影した写真を掲げておく。現在は国立大学法人電通大コミュニケーション・ミュージアム(新・歴史資料館)に名称が変わったが、同ミュージアムを訪ねるとオールドタイマーの無線機が見られる。

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J2CG林太郎氏の水晶送信機(新・歴史資料館収蔵)

1931年はこんな時代

札幌一中に進んだ田母上栄さんは、1931年(昭和6年)「受信局」の許可を受けSWLを始めた。オートダイン受信機でワッチしてみると、かすかにJ3DD笠原さんの信号が聞こえる。おそるおそるレポートを出した。これが笠原さんとの交遊の始まりとなった。翌7年1月、J7CGのコールサインで本格的にDXレースに参加した。

「交信第1号は和歌山のJ3DE宮井宗一郎さん、第2号はアメリカのW6FZYヘンリー岩田さんでした」 そのころ鹿児島市西田町からJ5CC堀口文雄さんがアクティブにオンエアしていた。笠原さんの推薦でJ7CGとJ5CCは国際アマチュア無線連合(IARU)の個人会員に登録され笠原さん、田母上さん、堀口さんの3人は「IARUトリオ」と呼ばれた。

昭和6年2月28日、JARL主催で初のオンエア・ミーティングに延べ80局が参加した。当時の開局数は東京38、大阪20、全国で約80、JARL会員数はSWLを含めて150人。4月3日、名古屋市で初のJARL全国大会が開かれた。しかし、翌7年は開催されず、第2回 昭和8年4月29日、東京逓信会館レインボーグリル(参加者45人)、第3回 昭和9年4月1日、大阪電気クラブ(38人)、第4回〜第10回全国大会まで続いた。昭和7年4月1日、JARL初の公開実験が大阪市の白木屋百貨店8階でJ3CT中村季雄氏、J3CS山本信一氏により行われた。(以上「ハム半世紀」p.62〜64より引用)

J2CGとJI1DN杉田倭夫氏の交信は1930年10月14日、2年後の1932年9月8日、杉田氏が急逝。我が国ハムのサイレントキー第1号になった。1933年10月、妹の千代乃さん(当時26歳)がYL局第1号として開局。兄と同じJ1DNで免許、後にコールサインをJ2IXに変更。戦後JH1WKSでカムバックした。

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JI1DN 杉田倭夫氏のQSLカード。交信日は1930年10月14日、2年後の1932年9月8日死去。ハムのサイレントキー第1号。

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J2IX 杉田千代乃さん。兄(J1DN)の急死により、まわりの勧めで1933年10月J1DNを開局、YL第1号。1934年(昭和9年)J2IX。戦後はJH1WKS。

1931年、宮井宗一郎氏(J3DE)が「QRA BOOK]を謄写版により発行、関係者に無料で配布。これが1940年(昭和15年)まで続いた。1935年(昭和10年)JARLがIARU(国際アマチュア無線連合)に加入。1935年10月20日、斯波邦夫氏(ex J1EG、J2HJ)がW3FAR、ZS1Hについで世界第3番目の28MHz WACを完成した。

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[QRA BOOK]を発行した宮井宗一郎氏(J3DE)、家族とともに。

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斯波邦夫氏(ex J1EG、J2HJ)とそのシャック

あとがき

J2CGの遺品からJ1DNのQSLカード並びにJ4EA岡本良雄氏のアルバムからJI1DN、J2IX、J3DEの写真、さらに田母上栄さんが2番目に交信したというW6FZYのシャックを発掘しました。併せて同年代の出来事を織り交ぜて74年前のアマチュア無線界を振り返りました。1925年(大正14年)秋、梶井謙一さん(当時大阪市)がJAZZ、笠原功一さん(当時神戸市)がJFMTのコールサインで波長300m、電信の交信に成功して86年が経過、J2CGの開局から80年、資料を精査している中で先人たちの熱い思いを感じながら本稿をまとめました。

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W6FZYヘンリー岩田氏のシャック(送信機)

参考:「アマチュア無線のあゆみ」(日本アマチュア無線連盟50年史)日本アマチュア無線連盟 JAPAN AMATEUR S.W. S.T.N.「QRA BOOK」No.2 by J3DE S.MIYAI(March 1932)

「ハム半世紀」(香山 晃 著)電波実験社(昭和51年・初版) (絶版)

「QST」February 2011 ARRL