VUの開拓からモービルへ
No.3 戦後のVHF
[太平洋上の警備]
想像もしていなかった本土空襲を受けた日本は、通信網の不備と判断し、太平洋上に無線機を設備した漁船を多数配備させることにした。それに使用する無線機の製作を国防無線隊に命ずる。この時、製作に加わった原さんによると「自費で使用部品をせっせと買い求めては、56MHz機を組み立てた。相当な出費となった。」当時、原さんは学習院の学生であった。免許制度が停止されてしまったため、ハムになり損ねていたがJARLの活動には熱心だった。「親から金をもらっては注ぎ込んだ」とこのころのことを覚えている。
この時の通信機は真空管76-41のラインアップで、A3、数Wであり、受信機は超再生だった。いずれにしても、軍用に通信機が使われるようになるとともに、56MHzが大切にされ、多くのハムにとっては挑戦の楽しさがあった。戦後,アマチュア無線が再開されると、原さんは50MHzに夢中になるがその遠因がこのような戦中の56MHzの自作体験にあった。
[再開されたアマチュア無線]
戦後再開されたアマチュア無線に割り当てられたのは、右表のような周波数であった。第1回の国家試験は26年(1951年)6月に行われ、合格者は第1級47名、第2級59名だった。翌27年(1952年)7月第1回予備免許が30名に下された。このうち50MHz申請したのは7名、144MHz以上はいなかった。
戦後、JARLはいち早くアマチュア無線の再開に取り組んだことは、しばしば他の連載で触れているが、基本的な免許政策、条件などは当時の逓信院と親しく打ち合わせて決めている。この時、JARLは144MHzの実現性があるかを調査するため、原さんに144MHz送信機の試作を依頼している。
多くのハムが自作できるよう、汎用の真空管での組立てを検討した。「807を使用したが無理であり、807Aでかろうじてできる、とJARLに答申したことを記憶している」という。そして「829Bや834のきちんとした送信管を使うのが良い。受信機は955による超再生か954によるスーパーヘテロダインが優れている」と提案した。
その原さんは第1回の国家試験に合格しながら7月の予備免許に漏れてしまい、開局が12月になってしまったが、それ以来50MHzに挑戦、同時に「About VHF」をアマチュア無線雑誌「CQ ham radio」に連載してきた。現在、VHFを語る時、極めて貴重な資料価値をもつ読物である。
戦後再開時に割り当てられた周波数
指定周波数 | 電波の形式 | 最高空中線電力 (ワット) |
3,524kc 3,520kc |
A1 | 100W |
3,504kc 3,510kc |
A3 | 〃 |
7,032.5kc 7,065kc |
A1 | 500W |
7,075kc | A1 | 〃 |
7,050kc 7,087.5kc |
A3 | 〃 |
14,010kc から 14,340kc まで |
A1,A3 | 〃 |
20,013kc から 21,437kc まで |
A1,A3 | 50W |
28,000kc から | A1,A3, F1,F2,F3 |
〃 |
50.35Mc から 53.65Mc まで |
A1,A2,A3, F1,F2,F3 |
〃 |
145Mc から 147Mc まで |
〃 | 〃 |
1,231Mc から 1,284Mc まで |
〃 | 〃 |
2,340Mc から 2,410Mc まで |
〃 | 〃 |
5,730Mc から 5,770Mc まで |
〃 | 〃 |
10,140Mc から 10,360Mc まで |
A1,A2,A3, F1,F2,F3,P |
〃 |
[50MHzのパイオニア達]
原さんによると、そのころ50MHzで交信していたのは関東では黒川瞭(JA1AG)さん、稲葉全彦(JA1AI)さん、山中一郎(JA1AK)さん、竹沢通夫(JA1AL)さんらだった、という。このため「ここが50MHzだというのを知らせるため、音楽を流したり、将棋を指したり、柱時計の中にマイクを入れてコチコチと音を流し続けたりした」と、苦労話を披露している。
戦前の56MHzは、先に触れた通りごく1部のハムが実験的に行った程度であったが、ようやくわが国にも本格的なVHF時代がやってきそうな状態だった。戦中、戦後のアマチュア無線停止時代を経て、50MHzが始まった背景には軍用通信に56MHzを活用し、その技術が磨かれたことや、使用された機器を活用できたことがあった。先に触れたように原さんはその典型であった。
原昌三・現JARL会長
[JARLの普及活動]
昭和28年5月5日、JARLは第1回QSOパーティを開催し、7MHz、14MHz、21MHz、28MHzとともに50MHz/144MHzの5クラスで交信局数を競わせた。VHFが広く認知されたといえる出来事であった。それでも、JARLは危機感を抱いていた。活用が少ないという理由で、VHF帯が他の業務用に取られそうな状況になったからである。
そこで、JARLはこの年の7月25-26日にVHF帯でのコンテストを実施、活用促進を図った。参加局は21局。50MHzでは黒川晃(JA1AG)さん、144MHzでは藤室衛(JA1FC)さん、山口意颯男(JA1DI)さん、井上鉄郎(JA1CM)さんが1位となった。JARLの普及活動とともに、自然現象もVHF帯の交信範囲拡大を支えた。
[国内~海外交信成功]
50MHzは50~60km、144MHzは20~30kmが当時の交信距離といわれていた。ところが、28年(1953年)の夏ごろから予想もできない長距離交信が実現している。関東―関西間、中国―関東間はもちろん、関東―九州が続々とつながりだしたのである。Eスポ(スポラジックE層)による異常伝播であるが、同時にそれと関係なく交信距離は伸び始めた。
受信機やアンテナの性能が良くなったのもその理由の一つであり、通常の状態でも交信距離は広がっていった。昭和30年代(1955年代)前半は50MHzの躍進の時代となった。このころから、50MHzで海外からの通信を受信した報告が寄せられるようになったが、ついに昭和31年(1956年)1月22日、東京の根岸秀忠(JA1AHS)さんがオーストラリアとの交信に成功する。
次いで、3月24日、佐賀市の大島保男(JA6FR)さんがアルゼンチンと交信。18240kmもの距離であった。この後10月28日には後藤正伸(JA1AUH)さんが米国との交信をするなど、一挙に記録的な交信ができあがった。この年と翌年は、太陽活動が活発であり、翌年には東南アジアとの交信も可能となった。ハムにとって50MHzも、挑戦しがいのある周波数帯になった。
50MHzでの海外との交信で3氏はJARLから表彰される。左から大島さん(代理の梶井謙一さん)後藤さん、根岸さん--- アマチュア無線のあゆみより