[50MHzに移行]

「ハム3人が同じ会社にいることは何かと心強かった」と山田さんはいう。お互いに情報交換している内に「すいている50MHzをやったらどうだろう」ということになった。この帯域は「そのころの東京では数人のハムが使っているに過ぎなかったと思う。すぐに米軍が放出したRT-70をジャンク店から買ってきて、渋谷さんが改造してくれた」という。

50MHzで交信しているうちに、先に紹介した石川源光さんと知り合う。すでに、石川さんは車に50MHz機を積んでおり「電話代わりに使っているのを聞き、われわれはうらやましくてしかたなかった」という。石川さんの車の中からの交信はきれいに受信できた。山田さんらは「われわれもモービルをやろう」と相談する。

山田さんらが、まだ「モービルハムクラブ」といわれていた石川さんらの集まりに加わったのは、昭和34年11月23日の第2回ミーティングだった。東京・港区の御成門にあった日本赤十字本社の前に集まり、その後、多摩川まで出かけて会合をもったらしい。何台かの車に分乗して行く途中、マイクを握って交信する“かっこ良さ”に山田さんらは興奮した。もうすぐ30歳になる若さがあった。

[日赤に集合]

集合場所がどういう理由で日赤本社であったのか、という理由探しは興味深い。当時は車の普及が進み、都内の道路も混み始めていた。駐車スペースがあるとはいえ、わざわざ都心の場所を選択する必要もなかったと思われる。山田さんも「どういうわけで日赤としたかはわからない。石川さんが決めたと思う」という。

推定出来るのは、このころからJARLと日赤との関係が深まっていたことである。昭和28年(1953年)6月、九州北中部は未曾有の豪雨に見舞われた。この時に、アマチュア無線は非常用通信として活躍したが、これが本格的アマチュア無線による初の非常用通信であった。このことがあってから、日赤は災害時におけるアマチュア無線の有用性に注目し、JARLとの関係を強めていく。

地方の日赤支所と各地のハムが連絡を密にし、本社にはJARLの無線室が設けられ、昭和31年以降のしばらくはJARLの総会が日赤本社で開かれるようにまでなった。戦後のアマチュア無線再開に尽力した石川さんは、このような経緯の中で日赤との関係を深めていたものと思われる。

山田さんは後にコリンズ社のKWM-2を車に載せたこともあった

[モービル発進]

どうしてもモービルをやりたくなった山田さんは、ほどなくして中古の乗用車プリンスを購入する。載せる50MHz機は再び渋谷さんに改造を依頼し、車に取り付けるためのケースを近くの板金業者に作ってもらった。ところが寸法が合わず「ケースをヤスリで削って真空管が収まるようにした」と45年も前のことを思い出している。

この車に乗って、山田さんはクラブメンバーと一緒に銚子や箱根へのドライブに出かける。やがて、車はオペルに代わる。車種はレコルトクーペP2。オペルの歴史を調べてみると、1961年から1963年に生産され、4気筒1680CC。天蓋の幌を後方にずらすと、オープンカーとなる車で、当時の日本では際立って目だったはずである。

しかし、山田さんが目立ったのは車だけでなかった。JMHCの活動についても活発だった。発足後ほどなくして会長に選ばれたのは、その積極的な活動のためであった。ミーティングの会場として、会社の会議室を提供するとともに、自作のモービル用アンテナ記事や、海外のモービルアンテナの紹介記事を会報に掲載し始めた。

JMHCのメンバーも増えていったが、同時に50MHzによるDXも活発となり、固定局が増加。それまで、モービル局優先で使われていた51MHzでも「楽しげな語らいの電波が輻輳してきた」と山田さんは会報に書いている。昭和38年(1963年)8月のことである。

山田さんはさらに続けて「どうも、モービル局優先のルールが無視され、固定局同士の長いラグチューにチャンネルが占有される危惧を多分にはらんできたようである。会員諸君にはモービル局優先の鉄則を51MHz F3の利用者に浸透させていただきたいと思う」と訴えている。もちろん、51MHzの優先使用の権限は誰からも保証されたものではなかったが、JHMCのメンバーは「ほとんど使われていない波をわれわれが開発してきた。しかも、交信は短時間で済ませ有効に活用している」との自負があった。

山田さんの自宅のシャック。左は奥さん。昭和38年ごろ

[拡大するJMHC]

昭和37年(1962年)5月の会員リストには、使用している送受信機や乗っている車種も記載されている。送受信機では、米軍のRT-70、RT-68などが圧倒的に多いことは先に触れた。自作機、タクシー無線機改造機がそれぞれ4人ほどいるが、驚くことは、井上研一(JA1GNA)さんがオールTR式の自作機を使っていることである。

車は、現在では想像できないが輸入車が多い。山田さんによると「国内の自動車需要は少なく、また、日本の自動車メーカーは必死になって欧米の技術に追いつこうとしていた時代だった。このため、国産車の生産は少なく価格も高く、輸入車とあまり変わらなかったと記憶している」という。