[全国最年少合格]

山田さんが昭和34年(1959年)11月の「モービルハムクラブ」(JMHCの前身)のミーティングに初めて参加した時、同じように初めて参加したなかの1人が横瀬薫(JA1AT)さんであった。横瀬さんは旧姓小川さん。昭和26年(1951年)6月に行われた戦後の第一回アマチュア無線国家試験で、第2級アマチュア無線技士に合格している。

この時の合格者数は、これまでも別な連載で何度か書いてきたが全国で1級が47名、2級が59名であった。横瀬さん(今後、横瀬姓を使う)は昭和8年生まれの18歳。全国でも最年少の合格者であった。第一回の予備免許は昭和27年7月28日付けで交付されたが、横瀬さんは申請していなかったため、予備免許取得はその年の9月22日の第二回だった。コールサインはJA1AT。関東では20人目のハムとなった。

昭和26年6月の第1回国家試験の合格者。2級の東京に旧姓小川薫の名がある

[ラジオ少年時代]

横瀬さんは東京・大田区生まれ。お父さんは東京府庁勤務の官吏であったが、昭和13年(1938年)に退職して土建業を始めた。「父の公務員の最後の仕事が勝鬨橋の建設工事の監督だった、と聞いている」と横瀬さんはいう。勝鬨橋は東京の隅田川にかかる全長246m、中央部が22mずつ跳ねあがり、そこを船舶が通れるようにした可動橋。「跳ね橋」とも呼ばれる可動橋は全国に40ほどあるといわれているが、勝鬨橋はその代表的なものであった。

昭和8年(1933年)に着工し、15年(1940年)に完成した。横瀬さんのお父さんは建設工事の途中、現在でいう“脱サラ”して事業を起こした。勝鬨橋はかつては1日に5回ほど20分間開いたが、開橋中は橋が使えず、交通渋滞となるため昭和43年には開橋をやめてしまった。

そのお父さんはラジオを組立てるのを趣味にしていた。その姿を見ていた横瀬さんも「ラジオを組立ててみたい」と思うようになり、お父さんに頼み込んだ。「まず、鉱石ラジオから始めなさい」といわれ、簡単に作り上げる。「自作のラジオで放送が聞けた時はうれしかった」という。戦前のことである。昭和16年(1941年)に太平洋戦争が始まるとラジオの自作も中断せざるをえなくなった。

本来ならば真空管ラジオの自作へと進む時期が戦時下で失われ、再び取り組み出したのは戦後であった。戦後すぐに戦前のハムが中心となってアマチュア無線の再開運動が始まるが、しばらくすると地域ごとにそのようなハム達や、アマチュア無線にあこがれる若者がクラブを結成し始めた。JARL(日本アマチュア無線連盟)がアマチュア無線再開のための基盤づくりをねらってクラブ結成を奨励したのも原因だった。

当時の「ホリゾン真空管」の広告。社名は堀川製作所だった

[城南クラブに加入]

大田区や品川区、目黒区などをエリアとして「城南クラブ」が発足、柴田俊生(戦前J2OS)さんや福士實(J2KM)さん、栗山晴二(J1KS)さんら戦前のハムが加わっていた。「城南クラブ」の発足時期について横瀬さんは「昭和25年ごろだったと思います。当時は自由が丘の熊野神社社務所で開催されておりました」と記憶している。

戦後、もっとも早くできたクラブは福井県の「福井県アマチュア無線研究会」と大分県の「大分無線同好会」で、ともに昭和21年(1946年)といわれている。当時の東京のアマチュア無線クラブは「城南クラブ」のほかに、城東地区の「東光クラブ」中央部分から城西にかけての「東京クラブ」の3クラブだった、と横瀬さんは言う。

「その後、ハムの数が増えるにともない城南クラブは城南、大井町、蒲田の3クラブに分かれるなど、東京のクラブも急速にクラブの数が増えた」と横瀬さんは記憶をよみがえらせてくれた。「城南クラブ」の会員となった横瀬さんは「戦前からのベテランハムの方にいろいろと教えを受けました。柴田さんの家にはよく行き、わからないことはなんでも聞きました」という。

このクラブでの元ハムとの交流から横瀬さんは、はっきりとアマチュア無線を目指すようになっていく。近くに先輩ハムが何人もおり、必要な部品や材料を売っている秋葉原が近くにあるのは東京のラジオ少年にとっての特典だった。地方のラジオ少年の多くは、ラジオ雑誌を唯一の参考にラジオを組み立てていた。なかには、アマチュア無線が再開され、試験が行われたことも知らないハム志望者もいた。

[日大工学部入学]

昭和26年(1951年)横瀬さんは日本大学工学部電気工学科に入学した。日大は戦前もアマチュア無線は盛んであり、戦前のハムには村井洪(戦前J2MI、後JA1AC)さんがいたが、その伝統が続いていた。横瀬さんは、すでにレベルの高いラジオ受信機を組立て、アマチュア無線の再開を前に、BCL(海外短波放送の受信)に熱中していた。

しかし、当時の日大には「アマチュア無線のクラブとしての集まりは無かったようで、さらに私達が卒業した後には仲間としての集まりも無くなってしまったようだ」と横瀬さんはいう。その理由として「千葉県の習志野に大きな学園ができ、工学部が理工学部になりわれわれのいた駿河台は電気工学、習志野は通信工学、情報工学にわかれてしまったためではないか」と横瀬さんは分析する。

横瀬さんがアマチュア無線技士の受験をしたのは日大時代である。すでに送信機の技術理論、構造、回路も暗記するまでになり、組立てる技術も身につけていた。しかし、戦後初のアマチュア無線技士の受験について「城南クラブの会員や大学の友達から、受けてみろと勧められたが、どんな問題がでるのかわからない。なにしろ、第一回の試験であり参考にする問題集もなかった。そのため、あらゆる本を読みまくった」と横瀬さんは当時を振り返る。

日大のアマチュア無線のメンバー。前列左端が横瀬さん。昭和28年