[ベテランに混じっての受験]

横瀬さんが最年少で合格した戦後初のアマチュア無線技士試験の2級合格者には、同じ「城南クラブ」の福士さんのほか、齋藤健さん、田母上榮さん、原昌三さんなど、戦前活躍したり戦後の再開運動に力を注いできた実力者もいた。皆、1級を受験する実力をもったベテランであった。原さんはしばしばその時の思い出を語っている。「斎藤さんにどうして2級を受けられるのですか、とお聞きしたら“こういうものは下から順番に受けていくものです”と答えられた」と。

試験には合格したものの、予備免許が与えられるまでには時間がかかった。昭和27年(1952年)6月のJARL機関紙「JARL news」は第一回予備免許を間近にしての発行となった。その時点での申請者30名のリストが掲載され、「遅くとも秋早々、日本よりアマチュア無線の第一声を空に送りたいものである」との願望が記載されている。

同時に、その号にはJARL関東支部の正員のリストも載っており、49名が会員となっている。JARLの正員は「戦前に免許取得者であったか、現在、従事者免許を取得し開局準備中」が条件。横瀬さんはJARLの正員として登録された。会員の名を追っていくと、いずれもかつてのベテランハムであったり、その後活躍した人が多い。横瀬さんは紛れもなく学生界のリーダー的存在だったといえる。

昭和27年12月に横瀬(旧姓小川)さんがもらった「無線局免許状」当時はこのような書式であった

[局設備落成検査]

昭和27年(1952年)9月22日の予備免許では、日大から亀割健彦(JA1AW)さん、野村五郎(JA1AX)さんも交付され、日大のレベルの高さをアマチュア無線界に示すことになった。横瀬さんは、この年の12月13日に局設備の検査に合格し免許状をもらった。

この落成検査の時は、日大電気工学科の先輩で関東電波監理局の郵政技官であった徳間敏致(JA1AY)さんが来てくれた。徳間さんは「JA1AT小川君(横瀬さんの旧姓)の落成検査は、短波の7MHzだけでなく、超短波の50MHzと144MHzの検査をしなければならないので私がついて行く」と名乗りをあげたらしい。横瀬さんは「大変心強く感じたものです」と、当時を振り返る。

事前に「当日は周波数測定器と超短波用電界強度測定器を持参するので局まで迎えに来て欲しい」と連絡があった。当時の測定機器は現在では想像できないほどの大きさだった。横瀬さんは朝、ダットサントラックを運転して電監まで出迎えに行った。荷台に測定機器と二人の検査官を乗せ、助手席には徳間さんを乗せて自宅に向った。

[ゆったりした検査]

自作の無線機による局設備の落成検査は、測定器の性能も十分でなく、また、検査官も慣れていないこともあり、とくに地方では1日かかったケースが多かった。横瀬さんの場合も「午前中から始まり、昼食を挟んで3時ごろまでかかり、検査簿に検査合格の判定をいただきましたが、ゆったりしたものでした」と、そのころを思い出している。

検査は、申請した7MHz、50MHz、144MHzのいずれもA3が、すべて条件通りであり、空中線電力はHFが8W、VHFが1Wであった。「この当時144MHzの申請は珍しかった」というだけに、検査官は真剣だったかもしれない。その日は「夕方までゆっくりしてもらい、局までお送りした」という。

本免許取得後、当然のことながら横瀬さんは交信の楽しみに熱中する。翌昭和28年(1953年)5月5日、JARLは第一回のQSOパーティを開催する。7MHzから144MHzの全バンドで、24時間での交信局数を競うものであったが、横瀬さんは7MHzと50MHzに参加、50MHz部門で5位に入賞している。さらに、12月25日には、3.5MHzの追加と、HFを10W、VHFを20Wとする変更を申請、最初からVHFに力を入れ始めた。

日大の学園祭では自作の無線機を持ち寄った。右から3人目が横瀬さん。JA1BYは電気科3年の渡辺矗良さんの局

[独自の真空管を使う]

横瀬さんが日大の同級生で、ハム友達の田所稔(JA1IJ)さんの予備免許のために作り上げた送信機は他にないものであった。横瀬さん独自の真空管を使ったからである。真空管メーカー「ホリゾン」の社長の次男が同級生にいた。横瀬さんは無理をいいオリジナルの真空管を依頼する。AF出力管の42のプレートをトップに出し、サープレッサーグリッドを単独で足に出させるように改造してもらった。

サプレッサー変調をねらっての改造であったが、横瀬さんはこの時の記憶を確かめるために、最近になって田所さんに手紙で問い合わせた。田所さんは良く記憶していて「アイディアのRF出力管だった」と返事を送ってきた。さらに「貴兄のRF出力管のサプレッサー変調のことや構造も覚えていますよ。変調トランスが不要で、効率的な変調とUHFのRF出力管として適しているのでは、と考えたことや、電監への申請書にはファイナルを“42改”と記入し、了承してもらったことを思い出します」とも記している。

[日大アマチュア無線]

大学2年の時、電気磁気学の「川西研究室」に入ったりしたが、どちらかというとアマチュア無線三昧の学生生活であった。「ラジオ雑誌に短波受信のレポートを書いたり、通信機メーカーの魚探組み立てのアルバイトに精を出したりした。一方、学園祭ではそれぞれが自作の送受信機をもちより実演した。」城南クラブでは自作のポータブル機を持ち寄り山に出掛けたりした。「昭和28年、大学3年のころが最も活発だったように思う」と、当時を思い出している。

「城南クラブ」ではポータブル機を自作し山に出掛けたりした

日大のアマチュア無線の話題を続ける。横瀬さんの先輩にすでに卒業した藤山雪郎(JA8AG)さんがおり、同じ研究室の1年上級生には野村四郎(JA1CB)さん、野村五郎(JA1AX)さんの双子がいた。昭和28年3月1日、この3人を結びつける美談とも悲話ともいえる出来事が起こった。