VUの開拓からモービルへ
No.10 横瀬さんのハムライフ(3)
この当時、函館に住んでいた澁谷兵衛(JA8AE)さんが東京に出張中のことである。澁谷さんの3歳のお嬢さんの様態が急変、その時、となりに住んでいた藤山雪郎(JA8AG)さんが東京のハムとの連絡を取る。応答したのが横浜市に住んでいた2人の野村さんであった。野村さんから東京・練馬区の小宮幸雄(JA1AH)さんに連絡がいき、小宮さんの必死のコールにより、澁谷さんとの連絡が取れた。
連絡が取れたが、すでにお嬢さんはなくなっていたという物語であり、別な連載「北海道のハム達。原さんとその歴史」にやや詳しく触れている。ただ、このいきさつを調べたその時は藤山さん、野村さんが日大の先輩、後輩であるとはわからなかった。函館~横浜間の交信が偶然であったのかどうか興味あるところである。
JMHCの東京のメンバーは盛んに「遠乗り会」を催す。箱根で
[就職]
そして4年生となった昭和30年(1955年)そろそろ就職を考えなければならなくなった。当時の日本は不況による就職難時代。横瀬さんはNHKに内々定しており、NHK技術研究所でアルバイトをしていた。が、採用枠を減らすことになり横瀬さんの採用が取り消された。やむなく、横瀬さんは「東京シアターサプライ」で、映写機のメンテナンスを手掛ける仕事に就いた。
「東京シアターサプライ」は、日本ビクターの音響部門と、富士精密(後にプリンス自動車)の映写機部門の社員が集まってできた会社で、その後、昭和35年(1960年)にビクター音響に吸収されて、現在はビクターアークスとして活動を続けている。横瀬さんが同社に入社したのは、日本ビクターに勤めていた林一太郎(JA1BZ)さんの紹介だった。
[変革期の映画業界]
横瀬さんが入社したころは、映画業界の変革期であり「シネマスコープ」「ビスタビジョン」が、全国に普及し始めた時であり、それが当時の最大の娯楽であった映画の話題となっていた。「シネマスコープは20世紀FOX社が開発し、第一作は“聖衣”その後“慕情”“エデンの東”など名作が続いた」という。
一方の「ビスタビジョンはパラマウント社が開発し、第一作は“ホワイトクリスマス”であり、その後“十戒”“OK牧場の決闘”などと人気の作品が続いた」と、当然ながら横瀬さんは当時の映画事情に詳しい。「シネマスコープ」にしても「ビスタビジョン」にしても、それまでの画面サイズと比べ左右の幅を広くした大型画面で大迫力をもち、また、音響効果もすばらしいものであった。
しかし、大画面・高音質を楽しむ観客とは裏腹に横瀬さんは多忙となった。新しいサイズや音響設備を全国の映画館が争って導入することになった。「ビクターの映写音響装置の設置を業務としていた会社だったので、出張が続き、私はアマチュア無線どころではなかった」と、当時を振り返る。
群馬県万座への「遠乗り会」
[NHKに就職]
映画フィルムはトーキーに音声を録音・再生しているが、始まったばかりのテレビ放送でもフィルムに録画、録音しており、VTRの実用化が目前のころであった。仕事の関係から日本ビクターや米国のRCAと接触も多く、キネ録(フィルム録画)を通じてテレビ局との接触もあった。
ほどなくして、横瀬さんのNHKへの就職が実現する。勤務は技術現業局録画課。VTRの利用が始まっていたが、横瀬さんの記憶に残っている研究は、画像のフレームの間を活用して文字を入れこむ「クローズドキャプション」だった。このクローズドキャプションはやがて米国では放送に取り入れられ、日本から輸出される13型テレビ受像機には同機能をもつことが義務付けられた。
昭和34年(1959年)横瀬さんは結婚する。相手の方はエナメル線を主に製造していた横瀬伸銅の社長令嬢であった。この時、必然的に横瀬さんの人生進路が決まった。姓も小川から横瀬に代わり、後継社長になる運命を与えられた。結婚後、1年間務めてNHKを退職した。
[横瀬伸銅(株)の経営]
横瀬伸銅(株)は昭和8年に創業され、主にトランス用の細線を製造していた。やがて、生産品目もエナメル線からポリエステレ線、ポリウレタン線が加わったが、わが国の電子工業の急速な発展にともない生産は拡大していった。横瀬さんは昭和40年(1965年)に専務となり、業績拡大の一端を担う立場となる。横瀬さんは当然ではあるが品質安定にはとくに気を配り、まだ中小企業がJIS(日本工業規格)に目を向けていないころに同規格を取得した。
余談になるが、横瀬さんは硬銅線を「城南クラブ」の会員に配ったことがある。HF帯用のロングワイヤーアンテナに使ってもらうためであった。この軟銅線を使うと、日がたつにしたがい伸びてしまうが、硬くて伸びない硬銅線が適しているためである。戦前、戦後を通じて一貫してVHFに取り組んできた柴田さんも、この時はHFで交信した。ほんのわずかな期間であったが「HFもおもしろい」といっていたという。
シャックを前にした澁谷さん(昭和51年11月)