VUの開拓からモービルへ
No.11 JMHC全国組織へ
[モービルハムとの出会い]
横瀬伸銅(株)の経営陣として仕事は多忙になっていたが、アマチュア無線とのかかわりを断ち切りたくなかった横瀬さんは、モービルを始める。「城南クラブ」の会員である柴田さんが、モービルを楽しんでいるのは知っていた。同時に、横瀬伸銅(株)では車で仕事をするようになった。仕事をしながら交信できることは一石二鳥だった。
柴田さんはルノーに米軍が戦時中に開発した通信機BC-1000と832Aを使用したブースターを載せていた。このBC-1000について「戦後は自衛隊が使用しており、上限が48MHzであるが、同調回路のチタコンを外すだけで52MHzまで簡単に上げられる」と、JMHCの会報に寄稿している。
さらに、このBC-1000について「国産化されて使われたが、間もなくモデルチェンジのために現役品や補充品、納入前の新品がスクラップになりそこなって、1部が格安でハムの研究用に回ってきた」と記している。柴田さんはこのBC-1000をさまざまに改良したらしく、何枚もの配線図を公開している。
[JMHCに加入]
横瀬さんがJMHCの前身であるモービルハムクラブに加入した時期についてはすでに触れた。横瀬さんが使用したのはRT-70に832Aのブースターという標準的な装備だった。もともとVHFに興味があり、回路技術にも詳しかっただけに次々と無線機を改良していった。昭和36年(1961年)12月3日に発行された「会報NO2」にAM-FM兼用の送信機への改造をレポートしている。
当時、東京のモービルは50MHzのFMが中心であった。横瀬さんは「自分だけで地方に出掛けた時、50MHzのA3局とQSOできたら一層楽しさが増すことだろう」と、RT-70に、AM-65/GRC、6AQ5PPのMOD・AMP、832Aファイナルを付加した大掛りな改造を回路図入りで詳細に寄稿した。
50MHzも混みだしてきたこともあり、横瀬さんはその後、米軍仕様の8MHzクリスタルを使った144MHz機を自作して車に乗せた。「50MHz、144MHzの両無線機を積んでいると、いろいろと対応でき非常に便利だった」という。さらに横瀬さんは430MHzに挑戦する。
JMHCの会誌に掲載された横瀬さんの「車載用FM-AMアダプターの製作」
[電子工業の海外移転]
昭和20年代末から成長を続け「電子立国」とまでいわれてきたわが国であるが、その後の高度成長の過程で、必然的に人件費が上昇し生産コストが高騰。このため、東南アジアの発展途上国の低賃金を求めて、電子部品の生産、完成品の組立てがこれらの国や地域に移っていった。
トランスの生産も同様であり、国内の細巻線需要も徐々に減少し始めた。同時に、横瀬伸銅(株)独自の問題が発生した。焼付線を製造する過程では皮膜となる塗料を焼付ける際、溶剤のクレゾール溶液を使用する。その匂いが焼付け炉の煙突から周辺に流れるため「匂いの公害」として問題となった。このため、昭和63年末に製造から一切手を引くことになり、その撤退準備を進める役目を帯びて、この年の2月に横瀬さんは社長に就任する。
[モービルファッション]
自動車電話も携帯電話もない時代、車の中から交信できるモービルは若者のあこがれとなった。海外との交信を夢見てアマチュア無線の免許を取得する若者の一方で、最初からモービル目当てでハムになる若者も出てきた。また、ハムの中にはモービルをやるために車の免許を取得した人もいた。高松の久米正雄(JA5AA)さんもその一人だった。
このように、モービル人口は拡大を続けた。昭和35年(1960年)のアマチュア無線局数は8538局であったが、10年後の昭和44年(1969年)には83224局と、ほぼ10倍に膨れ上がっている。横瀬さんは「モービルにあこがれての開局も多かったのではないか」と推定している。モービルは間違いなく若者のファッションのひとつになった。
[国産モービル機の登場]
メーカー製のアマチュア無線機が市場に登場したのは昭和30年(1955年)代である。当初はHF機が中心であり50MHz、144MHzのVHF機が本格的に登場したのはこの年代の末であった。HFでSSB(シングル・サイド・バンド)機が登場したのが昭和37年(1962年)VHFで全トランジスター構成のポータブル機が発売されたのが39年(1964年)であり、この年代の末はわが国アマチュア無線機革新の時期でもあった。
同時に、この時期を境に自作が大きく減り、メーカー製の市販時代に入っていった。50MHz機についての歴史を簡単に記すと、自作機のほかはこれまで触れてきたように米軍やタクシー無線の放出品を改良するか、国産ではHF機にコンバーターを取り付けるか、または昭和30年代初から販売されているキットを組立てて使用していた。
昭和39年(1964年)にアイコム(当時井上電機製作所)が発売した50MHz、AM機のFDAM-1は、初の全トランジスターによる本格的なポータブル機となった。翌年、同社はFM機FDFM-1と車載用の10WブースターFM-10を発売。さらに同社は昭和41年(1966年)にかけて、50MHz、144MHzのポータブル機を矢継ぎ早に発売する。もちろん、すべて全トランジスター構成であり、AM/FM両用機も加わっている。
国産全トランジスター50MHz機の第1号だったFDAM-1
このころのことを同社の井上徳造社長は「米軍のジャンクを入手し、雑誌に広告したところ、50台が数日で売れてしまった。調べてみるとモービル機用に使われていることがわかり、新しい市場に挑戦しようということになった。当時、70MHz、100MHzの周波数領域を処理できるトランジスターが開発されつつあり、ポータブル、モービル用途には小型、軽量化が必要と考え、全トランジスター化に取り組んだ」という。