[メーカー製モービルハム機登場]

昭和40年(1965年)になると、ポータブル機、モービル機の開発が活発になり、数多くのメーカーが登場する。今から、この時代を振り返ると、日本がそれまで高度経済成長を続け、その結果としての巨大プロジェクトが次々と企画され、完成した時代であった。昭和38年(1963年)に「黒4ダム」が完成、39年に「東京オリンピック」が開かれ、翌40年には「名神高速道路」が全面開通している。

1部では「オリンピック不況」の現象もあったが、国民の高揚感は自家用車をもち、ドライブに出かけ、旅行を楽しむ生活をつくり出した。また、裕福な家庭では高価なカラーテレビ受像機を購入する時代だった。アマチュア無線の世界もこのころ一つの転換期を迎えた。HFで国内外と交信していたハムの1部が、ポータブルやモービルの新しい世界に流れ出したことや、真空管に代わって登場したトランジスターを使っての自作に取組み出したからである。

40年代初頭のVHF機開発の活発さや、市場に参入したメーカーの多さはこのような日本経済、アマチュア無線の変化の結果ではなかったかと想像できる。このため、50MHzや144MHzのトランジスター機の販売を始めたのは、それまでのHF機を手掛けていた、いわゆる大手メーカーではなかった。現在では姿を消してしまったが、新興メーカーであった。

アイコムのモービル機FDFM-25A/B/C/D型。下が本体、上がコントロール部

[ハムの起業活動]

FDAM-1やFDFM-1の発売でハムの間に話題となったアイコムは、昭和40年にモービル機に参入する。12月に50MHz、出力15Wの全トランジスター機を発売したが、この後発売されたシリーズが144MHzの25C、25D、50MHzの25B、25Aであった。いずれも出力は10Wだった。

このころには、福山電機工業、多摩コミュニケーション、極東電子、クラニシなどからも50MHz機、144MHz機が発売されている。新たに登場してきたこれらのメーカーはいずれもアマチュア無線家が、それぞれの技術力を生かして開発した商品の事業化である点で共通だった。いわば、ハムの起業であった。

[山田さん 山田油機製造社長に]

50MHzのメーカー品の登場は、飛躍的にモービルハムを増やすことになる。同時に、モータリゼーションの波も都会地から地方に広がっていった。全国各地にモービルハムが誕生した。アンテナを付けた車がどこにも見れるようになった。全国組織を作ろうという話題が自然発生的に生まれる。

もともとJMHCの名称は全国を意識したものであったが、その後の流れはその名称にふさわしいものになっていった。しかし、このような組織拡大の時期ではあったが、山田会長は自社の業務に時間を割かざるをえなくなる。昭和38年(1963年)3月、山田さんは山田油機製造の副社長から社長に昇格する。

同社もまた、モータリゼーションの恩恵を受けて業績は急上昇していた。昭和36年(1961年)8月に1600万円とした資本金を、翌年7月に6400万円、10月には1億2800万円へと倍増、この間、9月には東京証券取引所市場2部に上場している。資本金は山田新社長誕生の5カ月後にさらに2億7000万円になった。

このような急成長を続けている上場企業の経営責任者として多忙となった山田さんではあるが、JMHCの全国大会を開催せざるをえない状況に追いこまれる。この全国組織づくりを積極的に進めた一人が柴田さんであった。柴田さんは先に紹介したように戦前のハムであったが、大正4年生まれでこのころまだ50代になったばかりだった。

山田豊雄さんは昭和38年に副社長から山田油機製造の社長に就任した

[第一回JMHC全国大会]

最初のJMHCの全国大会は、昭和41年(1966年)8月20、21日に、愛知県蒲郡の「ふきぬき」で開催された。開催場所については「関東、関西の中間地であることから決めた」と横瀬さんは、当時を語る。参加者は81名。関東19名、東海16名に対し、関西から30名以上が参加した。このほか、北陸、中国、九州からの参加が記録されている。

蒲郡で開かれた大会は、当時は「第一回」と名付けられていなかった。「JMHC各支部合同ミーティング」と呼ばれた。事実、このころには各地で支部ができ、支部単位のミーティングが行われ始めていた。支部の名称はJARLの組織名にならったものといわれている。

開催のいきさつの記録はないが、会合の内容については「CQ ham radio」が報告している。それによると、統一周波数の確保と支部の統一名称が決められた。統一周波数は51MHzの死守であり、統一名称はJMHCの後に支部名を付け「JMHC???」とすることになった。モービルハムだけに車での参加が多く、駐車場に入りきれない状況だったいう。

昭和42年(1967年)6月24日、熱海の「来宮ホテル」でJMHC全国役員会が開かれた。出席クラブはJMHC東京、静岡、東海、岡山、北陸の5クラブであり、次回の「全国大会」についての打合せが行われた。その2回目の「全国大会」は8月12日に静岡市の「日本平ホテル」で開催された。

参加したのは、JMCM東京(会員12名)関西(18名)東海(24名)北陸(9名)岡山(1名)岡崎(3名)静岡(22名)であるが、同伴家族を含めると、合計114名だった。この大会では「FMモービルチャンネルを使用する場合は、必ず2~3秒のブレ-キングタイムをとり運用する」ことが決定した。また、次回はJMHC関西が担当し、JA3エリアで開催することも決めた。

昭和40年代に入ると、全国各地でモービルハムの会合が開かれるようになった。写真は名古屋市で開かれた「JMHC東海」の総会。昭和43年