[第3回全国大会]

次いで3回目の「全国大会」は、昭和44年(1969年)8月23、24日に石川県七尾市和倉温泉「加賀屋」で開かれた。この時の主催は「JMHC北陸」であり、会場で配布する簡単なパンフレットが残っている。このパンフレットには「第3回JMHC全国大会」と初めて回数が打ち出された。

実は、この間43年(1968年)の大会が計画通り京都で開かれている。開催日は8月10日、11日。場所は京都駅近くの「ホテル佐野屋」だった。開催記録は残っていないが、当時、JMHC京都の会長であった久貝好男(JA3MZP)さんは「第3回とはっきりと銘打って開催した。したがって翌年の七尾の大会がどうして3回となったのかわからない」という。

「第3回」と間違って作られた七尾市で開かれたJMHC全国大会のパンフレット

[七尾市JMHC全国大会]

七尾市で開催された「全国大会」の出席予定者は地元の北陸が72名、次いで信越が19名、東海が16名、全体では約150名であった。議事は(1)全国的な連絡周波数の統一(2)交通安全運転(3)運用のマナー(4)災害救援活動の4項目。「大会スローガン」も掲げられた。(1)世界の電波の橋をかけよう(2)無線で社会へ奉仕しよう(3)故郷を空と陸から見守ろう(4)心のきずなを無線で結ぼう(5)電波は文明の光、ハムの誇りをもって活動しよう、の5つ。

議事にしてもスローガンにしてもほのぼのとしたものを感じさせる集まりであった。開催が第3回となったことを調べるため、当時の北陸の状況を調べて見た。当時はJMHC富山、金沢、能登の3支部があった。能登支部の活動は活発であり、この大会にも35名が参加している。

しかし、開催を第3回としたことについて、その時の大会幹事の一人であった七尾市の受川政吉(JA9LA)さんは「第3回がまちがいであったことは当時誰も気がつかなかったし、その後も気にしていなかったように思う」という。「JMHC北陸」が回数を勘違いしたのは、それまでの大会が開催を全国的に周知できていなかったことや、回数をうたっていなかったためと推定される。

[年一回定期開催に]

その後も、全国大会は毎年1回定期的に開催されているが、翌昭和45年(1970年)熊本で開かれた全国大会の集合記念写真にも「第四回JMHC熊本定期総会」と間違って印刷されている。正式な開催回数に訂正されたのは、昭和46年(1971年)の長野県白樺湖で開かれた「諏訪大会」であり、第6回と伝える記録があり写真にも「第六回」と印刷されるなどようやく訂正された。

JMHCの全国大会の形態はすでに開催の形が定着しているJARLの全国大会に似た形となっていく。主催地の支部が開催し、議事のほかに楽しいイベントを企画し、地元の観光地・物産など紹介するパンフレットを整えるようになる。もっとも、議事といっても翌年の開催地を決めるのが主な内容である。

昭和45年に熊本で開かれた全国大会記念写真。「第4回」となっている

[世間の関心が高まる]

車にアンテナを取り付けた車が増加するのにともない、モービルハムの存在は認知され出した。まず、アマチュア無線関連の雑誌が動き始め、昭和37年(1962年)に、誠文堂新興社が「無線と実験」12月臨時増刊号で「モービル 移動無線の技術 動くアマチュア無線局」を特集。モービルハムの実情を紹介するとともに、山田さん、横瀬さんなど主にJMHCの東京の会員達が技術記事などを寄稿している。

「CQ ham radio」やそのほかのアマチュア無線雑誌でも増加するモービルハムのためにページを割いたり、各支部の活動やモービルハム個々の写真を紹介し始め、モービル用のVHF、UHF関連の記事を増加させている。また「CQ ham radio」は昭和41年(1966年)9月号で「マイ・カーシャック」の特集を実施した。この特集では車を詳しく紹介するなど、アマチュア無線の広がりを示す内容になっている。

モービルの専門雑誌も発行された。昭和42年(1967年)にJMHCに入会した川合信三郎(JA1FUY)さんは、昭和48年(1973年)に勤務していた電波実験社で「モービルハム」の月刊誌発行を計画、実行に移す。川合さんはそれまで同社で「電子医学」や「アマチュア無線」の編集を担当していた。

昭和35年(1970年)にアマチュア無線の免許を取得していた川合さんは、車に無線機を積み込み交信するモービルハムがうらやましかった。JMHCへの加入は仲間の推薦で実現、昭和43年(1968年)の全国大会にも初参加し、仲間との交流を深めていった。しばらくして「急増するモービルハムの状況から、皆さんが情報交換、モービル機・アンテナなどの技術知識を欲していることを知り、専門誌の発行を計画した」と、当時を説明している。

昭和37年12月に発行された「無線と実験」のモービル特集号

[全国組織の結成]

全国大会開催が軌道に乗るようになると、各地から全国的な組織を結成したいとの要望が出始める。昭和48年(1973年)に長島温泉で開かれた8回大会で、全国統一組織が作られ、モービルハムの草分けともいうべき神戸の桑垣さんが会長に就任し、東京の柴田さん、熊本の原田隆冶(JA6GNI)さんが副会長に選出された。全国各JMHCの代表者は理事となり、事務局は電波実験社の川合さん、会計は日比五郎(JA1GW)さんが、それぞれ担当することになった。

また、JMHCニュースは、発行が始まった「モービルハム」誌にページを割いてもらって掲載が決まった。その意味で、この8回大会はJMHCの歴史の中でも画期的な役割を果たした大会となった。JMHC東京では、この全国組織決定を前に、山田会長の下に「JARL・全国JMHC連絡渉外局」「会計事務局」が設けられ、JMHC東京の日比さん、同横浜の西山藤一郎(JA1OBY)さんが渉外局、同東京の柴田さん、同横浜の桜井宏皆(JA1EZL)さんが事務局担当となっていた。