[モービルハム名簿の発行]

全国組織が整備されるのにともない、全国のモービル会員の名簿の必要性が高まってきた。それまでは、各支部単位のリストはあったが、全国のリストは無かった。山田会長はリストづくりを進め、日比さん、柴田さんが中心となって編集した。発行は電波実験社。昭和48年(1973年)8月に発行された「MOBILE HAM CALL BOOK’72-’73」で、山田会長は「クラブ数43、総会員数4000人」と「発刊にあたって」の中に書いている。

コールブックは当然、全国のクラブを網羅したものであるが、名称は必ずしも県名ではなく、地域名のものもあった。不思議なことは東京に次ぐであろう会員を抱える大阪がすっぽりと抜けていることである。JA3関西地区の項にはJMHC「京都」「和歌山」「六甲山」の3クラブのみが掲載されている。

モービルハムの草分けの一人として、すでに紹介した桑垣さんは、神戸市灘区に住み「阪神変圧器製作所」を経営していた。桑垣さんは北海道から鹿児島までを2カ月かけて「モービル行脚」しているが、その影響を受けて関西のモービルハムの誕生は早かった。桑垣さんは、昭和40年(1965年)8月号の「CQ ham radio」誌上で次ぎのように当時のJMHCについて説明している。

[JMHC関西の発足]

JMHCは数年前にモービルハムの集まりとして発足しました。現在では関西、中部、北陸に支部があって、また、札幌、仙台、岡山、広島に支部をつくりつつあります。本部、支部を合わせて約300局のモービルハムをもち、機動力をもつユニークな存在です。JMHC関西支部は昭和38年に発足し、毎月訓練を兼ねた団体行動を行っています。

発足当時、関西支部は寺田薫(JA3AMQ)さんが会長、葭谷裕治(JA3IG)さんが会計担当であった。昭和38年(1963年)8月、夏休みを利用して関西支部の会員は、車約10台に分乗して、JMHC東京の山田会長を訪問する。東京がどのような活動をしているのかを知り、連携を深めるのが目的であった。

寺田さんは当時を思い出して「宿は山田さんにお世話いただいた。ミーティングの場所をボーリング場にしたために、うるさくて話しが良くできなかった」という。そして「東名高速は出来ておらず、一般道を通って行き、帰りは山梨県の芦ノ湖、静岡県の浜名湖に寄ってきました」と、40年前の記憶は鮮明である。

JMHC関西のメンバーは昭和38年8月に、東京のメンバーを訪問する。宿泊した旅館前での寺田さん

その帰りには芦ノ湖を訪ねた。湖畔に集まったJMHC関西の車

[独自の活動]

その後、JMHC関西が最初の全国大会に大量に出席したことは触れた。実質的には第4回となる七尾市の全国大会には、大阪から6名、京都から8名の出席予定者数が記録されている。その後の全国大会への出席は確認できないが、やがて大阪のグループは、完全に独立した歩みを始めたもようである。

大阪のモービルハムがリストから抜けているため、全国のモービルハムの中からは「大阪は東京と喧嘩をしたのではないか」と、疑われたこともあったが、寺田さんは「そんなことは全くない」と否定する。「組織に縛られたくない。支配を受けたくない、という関西人の気概から独自の道を歩くようになった」と、その理由を話す。

この考えは、最初の東京とのミーティングの時にすでに固まっていたらしく、うるさくて話しが出来なかったボーリング場で「関西は独自にやりますからよろしく」と挨拶したという。しかし、最初の全国大会には寺田さん、葭谷さんも出席し、その後の全国大会は参加は自由という方針であったらしい。

また、静岡ではJMHC静岡のメンバーと交流。静岡ナンバーの車を覗くJMHC関西のメンバー

[寺田さんのラジオ少年時代]

当時、会長として活躍した寺田さんは大阪市生野区に昭和8年(1933年)に生まれた。小学校時代、いとこが鉱石ラジオを作ってラジオ放送を聞いていたのに興味をもったのがラジオ少年になったきっかけだった。太平洋戦争開戦が近づいていたころであり「バリコンは手に入れたものの、鉱石が手に入らなかった。学校の近くにあった文房具店の鉱石見本から方鉛鉱だけを売ってもらい、鉱石検波器を作り、ラジオを完成させたことを覚えている」という。

ラジオ少年になったが、戦争に遮られてラジオ作りはやめざるをえなくなった。そして戦後、鉱石ラジオから真空管ラジオへとレベルを上げ、スーパーヘテロダインラジオを作る。その腕が見込まれ「あるメーカーに頼まれ100台程度を作った記憶がある」という。昭和26年(1951年)4月、民間放送16局に予備免許が与えられ、9月には中部日本放送(名古屋)新日本放送(大阪)が開局、わが国初のラジオ放送が始まった。

ラジオ受信機の需要は急増し、ラジオ受信機を生産する企業は一時は200社から、300社ほどあったと伝えられている。この時、活躍したのが、戦前のハムやラジオマニアであった。多くの戦前のハム達は、放送業界やラジオメーカー、電子部品メーカーなどに就職、技術開発に没頭しその後の「電子立国」日本を作り上げた。

一方、ラジオ受信機の自作を始めた人達は「アマチュア」と呼ばれ、部品を購入してはラジオ受信機をせっせと作り、親戚、友人、知人などに譲ったり、販売したりした。当時、ラジオ受信機には15%の物品税が掛けられており、メーカー製の市販品は高かった。戦後の生活苦のこの時代に、ラジオの自作で生計を立てていた「アマチュア」もいた。寺田さんは自作ではなく、メーカーの下請け仕事をしていたことになる。