寺田さんがラジオ作りの手ほどきを受けたのが、大阪の歌舞伎座で照明や電気配線を担当していた電気係の人からであった。昭和30年(1955年)寺田さんは電気店を開業する。興味をもっている電気製品の知識と技術力を生かしたかったからである。当時は大手電機メーカーが競って電気店の系列化を進め出したころである。寺田さんはシャープとソニーの製品を扱う店になった。

昭和25年(1950年)に勃発した「朝鮮動乱」は、わが国に「朝鮮特需」を生み出し、国民の生活も急速に向上していった。白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が「3種の神器」といわれ、購入したい商品の上位となっていた。このため、電気店経営は順調だった。経営が軌道に乗ると、寺田さんは「アマチュア無線をやりたかった若いころの気持ちが思い出され、どうしてもハムになりたくなった」という。

寺田薫さん

[寺田さんハムに]

「アマチュア無線の受験勉強は独学だった」と寺田さん。昭和33年(1958年)3月1日、第2級アマチュア無線技士に合格。25歳になっていた。が、電気店の仕事が多忙であり、アマチュア無線三昧は難しかった。家電業界の歴史の中で、今でも話題になっている一つが昭和34年(1959年)の今上天皇のご婚礼を前にした「白黒テレビブーム」である。

前年の33年(1958年)に121万台であった白黒テレビの生産は、この年は271万台に倍以上となる。「とにかく白黒テレビが足りない。あればあるだけ売れた。直接シャープの白黒テレビ生産工場に出かけて、商品を寄越せと折衝する日々が続いた」と、また、「当時は今では想像できないほど電気製品の販売は儲かった」と振り返っている。

[モービル開始]

多忙な仕事で自宅でのアマチュア無線運用が出来ない。家電商品の配達や、修理サービスに車を使う。寺田さんは車に無線機を積んで更新するモービルが「一石二鳥」と考え始める。桑垣さんとも交流ができ、モービルに興味をもった寺田さんは、積極的に活動を始める。免許を取得した昭和33年(1958年)の11月2日に日本赤十字大阪府支部に設けられた固定局と、自動車に載せた無線機との交信の公開実験を行った。

当然のことながらこの時は、28MHzでの交信であった。昭和30年(1955年)前後は、全国で水害が多発し、増えつつあったハムが非常用通信で活躍し始めていた。政府や自治体の防災無線の普及は進んでいない当時は、電話だけが通信を支えていた。ハムの通信力が頼りにされ、自治体も、マスコミもアマチュア無線を利用した時代であった。

寺田さんは家電店を開業した。店名は「大阪電気商会」なんともスケールの大きな名前だった

[非常無線クラブの発足]

なかでも人命救助の役割をになう日本赤十字は、全国的にアマチュア無線局との接触を強めた。寺田さんらは公開実験を行った翌3日に「大阪府アマチュア非常無線クラブ(OEC)」を発足させる。会長には鳥羽米蔵(JA3LH)さんが就任、寺田さんは副会長を引きうけた。

寺田さんは家電店経営が多忙ではあったが、この活動にのめり込んだ。「仕事の方はほったらかしにして、好きなことをやっていた」と、当時を振り返るが、乗り出した非常通信の仕事には熱中した。OEC発足後役10カ月が経った昭和34年(1959年)9月、クラブとしてJARLに加盟するかどうかの審議が行われたが、加盟は見送られた。

昭和35年(1950年)にOEC会員による会長選挙が行われ、寺田さんが会長に選出された。災害を想定した非常時訓練も盛んにやった。日赤だけでなく、大阪市や大阪府、さらに大阪府警などとの合同訓練も増え、飛行機やヘリコプターも加わった。車をもつ仲間が増え、車載無線機もHF機からVHF機に代わり始めていった。

ハム仲間はしぱしば集まっては、非常通信の話し合いをした。いつも飲食が付きまとった

[50MHz機の活用]

寺田さんも昭和40年(1965年)にはそれまでの28MHzの無線機をVHFに代えるため、50MHzの免許を申請する。会長の寺田さんは、無線機の組立て、改造でも仲間の依頼に応えた。昭和30年(1955年)代後半から、40年(1965年)代初頭には、車に積むモービル期は米軍の放出品や、タクシー無線機を改造したものがほとんどであった。

JMHC東京のところで詳しく触れたが、米軍放出品はRT-70を筆頭に、RT-66PRC-6、PRC-7、VRC-2など。米軍が戦時中に開発し、戦後は日本の警察予備隊が使用したBC-1000もジャンク店に出まわった。次いで、国産のタクシー無線機も手に入るようになる。タクシー無線機が出回ったいきさつについても、No.5~No.11の回ところですでに解説している。

[ハムの育成]

非常通信の訓練や、実際の災害時でのハムの活躍はしばしば新聞に取り上げられ、アマチュア無線が一般の人にも知られるようになった。日赤にも問い合わせが増えだしたため、寺田さんらは日赤大阪府支部のホールを借りて「ハム大学」を開講することにした。昭和33年(1958)11月から、昭和35年(1960年)3月まで、約4カ月の講習が3回行われた。「ハム大学」では、藤田晃(JA3ADM)さんが中心となって活躍した。

当時の郵政省がハム志望者の増加に対応して「養成課程講習会」制度を設け、JARLに代行させたのが昭和41年(1966年)である。OECの試みは早かったことがわかる。これらの活動は現在でいうならば「ボランティア活動」であり、寺田さんらはその社会的使命に熱心に取り組んだ。大阪の場合はこのOECが母体となって「JMHC関西」へと発展していった。